「中国共産党によるモンゴル人ジェノサイド実録」アルタンデレヘイ 原著 楊 海英 編訳


中国共産党によるモンゴル人ジェノサイド実録

       アルタンデレヘイ 原著

         楊 海英 編訳

前 書 き

隠され続けている大虐殺=モンゴル人ジェノサイド

一九六六年夏、毛澤東と中国共産党主導の文化大革命が勃発した。

 その一年後の一九六七年末から一九七〇年夏にかけて、内モンゴル自治区では多くのモンゴル人たちが逮捕、粛清された。彼らに冠された「罪」は、「内モンゴル人民革命党員」だった。この「内モンゴル人民革命党」には「偉大な祖国中国からその固有の領土である内モンゴルを分裂させようとした歴史がある」、と断罪された。犠牲者の数については諸説がある。

 内モンゴル大学の教授?維民が編纂し、内モンゴル大学出版社から出た『内蒙古自治区史』(一九九一年)は、二万七千九〇〇人が殺害されたとする。

 マカオ大学の程惕潔(程鉄軍)教授と内モンゴルの著名な紅衛兵のリーダーである高樹華は二〇〇七年に香港から出した著書『内蒙文革風雷』のなかで、約五〇万人が逮捕され、二~三万人が虐殺されたと計算している。程惕潔は文化大革命中に『内モンゴル日報』の記者だったので、当時の経験に基づいて研究している。

 ニスレ(尼斯勒)は最近、逮捕者の数は約一〇〇万人に上り、死者の数は五万人に達するとの見方を示している。いずれにしても、真相は不明のままである。一つだけ言えるのは、この「内モンゴル人民革命党員を粛清する」事件たるものは、モンゴル人のみを対象とした大量虐殺である、ということである。それは、ジェノサイドだった。言い換えれば、モンゴル人だから、という唯一の理由で殺害されたのである。

 犠牲者の数を確認するのには、中国政府の情報開示を待つしか方法がないかもしれない。しかし、中国政府の情報開示を待つ以前にも、研究者たちや良識的な市民たちにはやっておかなければならない仕事がある。それは、この事件を世界に知らしめることである。世界はまだ、「モンゴル人ジェノサイド」の実態を知らない。日本を含む世界各国の「進歩的な知識人」たちはかつて文化大革命を絶賛していた。はたして、数々のジェノサイドを推進してきた文化大革命が謳歌の対象であってよいのだろうか。

 「中国におけるモンゴル人ジェノサイド」の実態について考えることは、我々人類の二〇世紀について考えることを意味している。

 一九四八年一二月九日、国連総会は「ジェノサイドの防止及び処罰に関する条約」(略してジェノサイド条約)を採択した。「ジェノサイド条約」の第二条の規定は以下の通りである。

 この条約において集団殺害とは、国民的、人種的、民族的又は宗教的な集団の全部又は一部を破壊する意図をもって行われる次の行為をいう。

 a)集団の構成員を殺すこと

 b)当該集団の構成員の肉体又は精神に重大な危害を加えること

 c) 集団の全部又は一部の肉体的破壊をもたらすために意図された生活条件を集団に故意に課すること

 d)集団内における出生を妨げることを意図する措置を課すること

 e)集団の児童を他の集団に強制的に移すこと

 中国共産党が発動したモンゴル人ジェノサイドの実態は、以上で示した国連による「ジェノサイド条約」の規定とすべて合致している。

 大量虐殺だけではない。一九六九年五月、内モンゴル自治区東部の三盟と西部の三旗がそれぞれ隣接する漢人とムスリムの省(自治区)に分け与えられた。モンゴル人たちを「分けて統治する」政策の導入である。モンゴル人の領土が再び自治区に返還されるのには、一九七九年まで待たなければならなかった。地圖1と2は、それぞれ分割されていた当時の内モンゴル自治区と、現在の内モンゴル自治区を描いたものである。

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図1 図2

 本書はアルタンデレヘイ(阿拉騰徳力海)氏の著作『内モンゴルにおける〈内モンゴル人民革命党員をえぐり出し粛清する〉事件の災難録』(内蒙古?粛災難実録)の抄訳である。アルタンデレヘイは仮名である。同書も地下出版の形を取っている。というのは、「モンゴル人ジェノサイド」は、中国では研究が許されないタブー領域である。同書は一九九〇年代末期に現れ、中国のモンゴル人社会で広く読まれている。最近ではインターネット上からもアクセスできるようになっているが、まだ日本語にはなっていないので、その抄訳を試みた。日本語になったことで、広く日本のみなさんに「モンゴル人ジェノサイド」の歴史について、知っていただきたい。そして、将来的にはこの小さな書籍が英語となって、「モンゴル人ジェノサイド」が更に世界的に知られ、国際人道法廷でも取り上げられることを希望している。(楊海英)

   モンゴル人が大量虐殺された時の「罪」は、「内モンゴル人民革命党員」だった。では、「内モンゴル人民革命党」とはどんな組織だったのか。どのような人たちが、如何なる目的で「内モンゴル人民革命党」を創ったのか。その歴史を辿ってみよう。

  一、内モンゴル人民革命党の歴史

 一三世紀に、遊牧民のモンゴル人たちは北アジアのモンゴル高原から立ち上がった。ユーラア大陸をまたぐ大帝国を創り、中国もモンゴル帝国の一部、元朝となった。

 一四世紀になると、漢人の朱元璋がモンゴル人たちを長城の北へ追い出して、漢人の明朝を打ち立てた。そして、時が過ぎて一七世紀に入ると、満洲人たちが長城の北側に現れ、中国を支配下においた。モンゴル人たちも満洲人の力を認め、その同盟者となった。大沙漠の南に住むモンゴル人たちは一六三六年に満洲人の政権に下り、内藩と呼ばれ、今日の「内モンゴル」の基礎が形成された。モンゴル各部間の交流を分断させるために、モンゴル高原の諸部は「外藩」と称されるようになった。「内藩」も「外藩」も盟(アイマク)や旗(ホショー)と呼ばれる行政組織に編入された。清朝は当初、藩部としてのモンゴル草原に漢人農民が入るのを厳しく制限していた。ところが、一九世紀になると、西欧列強の侵略で疲弊しきっていた清朝はついに漢人農民たちのモンゴルへの流入を認めた。清朝政府に強い不満を抱く大量の漢人農民が内モンゴルの草原に入植した。漢人たちはモンゴル人の生活基盤である草原を開墾し、深刻な沙漠化をもたらした。両者の対立も激しくなった。

 一八九一年に「金丹道」という漢人反乱が起こった。首領の楊悦春という漢人は「掃北武聖人」(「北のモンゴル人を一掃する武勇聖人」との意)と自称した。内モンゴル南東部のジョソト盟、ジョーウダ盟に闖入した「金丹道」は各地で大量虐殺を働いた。楊悦春は「モンゴル人と満洲人を殺して清朝を滅ぼす」(掃胡滅清殺韃子)、「モンゴル人を殺してその土地を奪おう」(殺人奪地)というスローガンを掲げていた。漢人たちのこの反乱はモンゴル人社会に大きな恐怖と深刻な影響を残した。

 漢人の孫文も「金丹道」とまったく同じようなスローガンを打ち出した。彼は「韃虜を駆逐して中華を恢復する」という旗の下で、中華民国を一九一一年に作った。そして、明朝の朱元璋を模倣して南京を都とした。モンゴル人たちも同じ時期に満洲人から離れる決定をした。モンゴル高原にいた活仏ジェプツンダムバ・ホトクトは、「漢人たちに虐待されないように、我々モンゴル諸部も一つになろう」と各地のモンゴル人たちに呼びかけていた。

 活仏ジェプツンダムバ・ホトクトは独立したモンゴル高原の「聖ボクドなるハーン」になった。南モンゴルの各部も独立に呼応したが、漢人軍閥たちに容赦なく鎮圧された。満洲こと東北の軍閥呉俊昇は独立しようとしたモンゴル人たちの血で袁世凱政権の陸軍中将の爵位を獲得した。独立運動の指導者で、モンゴルのカラチン部の親王グンサンノルブは北京に抑留され、実権のない「モンゴル・チベット(蒙藏)委員会」の事務局長に任命された。指導者を失った南モンゴル諸部は次第に中華民国の「共和体制」に組み込まれていった。

 ソ連の「十月革命」の影響もあって、モンゴル高原では更に一九二一年に人民による革命運動が起こった。このことは当然、南モンゴルこと内モンゴルの知識人たちにも大きな影響を与えた。同じ時期に、漢人の孫文もコミンテルンの支持を得ようとして、「国内の弱小民族にも自決権を与える」と主張するように変化した。こうしたなか、カラチン部出身のモンゴル人ボヤンタイ(白雲梯、別名セレンドンロプ)らが「内モンゴル人民革命党」を組織しようと活動を始めていた。ボヤンタイは北京の「蒙藏学校」の生徒だったこともあって、彼は同校に来ていた内モンゴル各部各地域の優秀な青年たちを集めて、一九二五年に長城の麓にある町、張家口で「内モンゴル人民革命党」第一回党大会を開いた。これにはコミンテルンとモンゴル人民共和国の政府代表も参加していた。党の中央委員にボヤンタイ、アルタンオチル、エンヘブレン、イデチン、バヤンタイ、メデレト、メルセイ(郭道甫)、サインバヤル(包悦卿)、レーチントなどが選ばれた。同党は反帝国主義、反封建主義と反大漢族主義をその綱領に書き込んだ(2)。

(2)ウラーンフこと雲澤もこの「内モンゴル人民革命党」創立大会に参加していたが、特に目立っていたわけではない。以下、注釈はすべて編訳者によるものであることを断っておきたい。

一九二九年、モスクワに留学していたテムールバガナとポンスク、それにウリジオチルが内モンゴル東部に戻って、党員拡充に努めた。ハーフンガやアスガンなどの青年が同党の有力な党員となった。日本統治下の地域で武装蜂起の計画もあったが、コミンテルンの許可が下りなかった。内モンゴル人民革命党幹部のテムールバガナは一九三六年と一九四一年に日本軍に疑われたが、そのつど満洲国駐日大使館に勤めていたハーフンガが帰国して彼を助けた。コミンテルンの情報員も日本軍にマークされていたが、それもハーフンガの力で無事だった。

 内モンゴル西部では、徳王(デムチュクドンロプ)の蒙疆軍第九師団内にもアルタンガダとビリクバートル、それにウリジオチルなどの党員が活動していた。彼らは東部のハーフンガやアスガンらと連絡しようとしていた。また、サインバヤル、デリゲル、王克夫(3)などはコミンテルンとの連絡役を担当していた。

(3)内モンゴルのモンゴル人たちは漢文化の影響もあって、二〇世紀初頭から漢字姓名を用いる現象が見られるようになった。しかし、このことは決して同化を意味するものではない。

 日本の統治下において、内モンゴルの東部地域は満洲国に編入された。しかし、日本の支配を経て、多くのモンゴル族知識人が誕生した。彼らは後に内モンゴルにおける自治運動の中堅として育っていった。

 一九四五年夏、内モンゴル人民革命党の幹部ポンスクはソ連・モンゴル人民共和国聨合軍と共に南モンゴルに帰った。モンゴル人に絶大な人気があったハーフンガ、それにテムールバガナらはポンスクらと共に内モンゴル人民革命党の復活を宣言した。時は一九四五年八月一八日だった。ハーフンガらは内モンゴル人民革命党東モンゴル本部の名義で、「内モンゴル人民解放宣言書」を公布した。宣言書は言う。

 一、 内モンゴルはこれからソ連とモンゴル人民共和国の指導の下で、モンゴル人民共和国の一部となる。

  二、内モンゴル解放軍はソ連軍に協力して日本の侵略者を駆逐する。

  三、封建勢力を一掃し、人民に自由の権利を保障し、非資本主義の道を歩む。

  四、 民族差別を無くし、領土内に住む他の民族を蔑視しない。漢族の解放運動を支援し、中国の革命的政党と協力関係を結ぶ。

 内モンゴル人民革命党はまた次のような手紙をモンゴル人民共和国の最高指導者のチョイバルサンとツェデンバルらに提出した。

   内モンゴルの人民は長年にわたってモンゴル人民共和国とソ連の指導を受けて革命闘争を今日までに推し進めてきた。内モンゴルの二〇〇万人の同胞たちはモンゴル人民共和国に合併されることを強く要望している。今こそ、全モンゴル族統一の絶好の機会である。

  内モンゴル人民革命党東モンゴル本部

  秘書長:ハーフンガ

  執行委員:ボインマンド、テムールバガナ、サガルジャブ、オユンダライ、オユンビリク、アスガン、エルデンタイ、ナイラルト、ツォンハブ、ラハムジャブ、サンジャイジャブ、ワンダン

一九四五年八月一八日

 内モンゴル西部草原のモンゴル人たちも「内モンゴル臨時共和国政府」の成立を宣言していた。こうした動きを察知したアメリカ政府はスターリンに事の真偽を正した。そして、スターリンははじめて『ヤルタ協定』の存在をモンゴル人民共和国のチョイバルサンらに伝えた。

 モンゴル人民共和国に来ていた内モンゴル東部からの代表団と「内モンゴル臨時共和国政府」からの代表団に向かって、チョイバルサンは次のように返事した。

  一、 モンゴル人民共和国もようやく承認されたばかりで、内外モンゴルの合併は困難である。内モンゴル問題に関心を抱いている中国共産党と連絡するように。

  二、 内モンゴル人民革命党の成員は複雑で、内モンゴルの革命をリードするのに困難ではないかと予想される。

  三、内モンゴルで階級闘争を実施しないように。

 チョイバルサンらの指示を受けて、「内モンゴル臨時共和国政府」は解散の道を選んだ。そして、東モンゴル自治政府も「内モンゴル臨時共和国政府」も仕方なく中国共産党と連絡を取った。そこへ、中国共産党中央東北局西満分局が進出してきた。

 一九四六年四月、東西モンゴルの代表たちが熱河省の承徳で遇って、内モンゴルの統一について話し合った。翌年の四月、内モンゴル西部トゥメト出身の雲澤こと後のウラーンフが王爺廟(後にウラーン・ホトに改名)に迎え入れられた。東モンゴル自治政府は礼砲を打ち鳴らして、彼を「モンゴル族の指導者」として歓迎した。そして、一九四七年五月一日、内モンゴル自治政府は王爺廟で成立した。

 以上のように、日本統治時代、中国共産党はそもそも内モンゴルに入ってもいなかった。したがって、そのような特殊な時代において、モンゴル人たちが内外の統一と合併を求めて、民族の自治を獲得しようとして努力するのは、当然の成り行きである。それを後日、ことごとく「祖国を分裂させようとした売国行為」として批判し、大量虐殺を行ったのは、根本的に間違っている。

 中国共産党は後日、王爺廟を「民族分裂の基地」とし、日本統治時代に育った知識人たちを「日本刀をぶら下げた者」( 洋刀的)として批判した。それも、基本的に間違っている。漢人の魯迅だって日本で教育を受けている。共産党の高官たちの多くも「西欧列強の国々」に留学した経験を持つ。何故、日本と接したモンゴル人たちのみが悪いとされるのか。共産党の聖地とされる延安で育った康生や毛澤東の夫人江青だけは清廉な人物だろうか。

 歴史はいずれ、モンゴル人たちの二〇世紀に正しい評価を下すだろう。

 

 一般的に中国の文化大革命は一九六六年五月一六日付けの「中国共産党中央委員会通知」、つまり「五・一六通知」の採択によって始められた、とされている。「五・一六通知」が採択され、伝達されるのと同じ時期に、内モンゴルの最高指導者のウラーンフは北京で吊るし上げられ、失脚に追い込まれた。内モンゴル自治区は中国のどの地域よりも早く文化大革命に巻き込まれた。言い換えれば、毛澤東と中国共産党は内モンゴルから文化大革命を開始したのである。北部辺疆に住むモンゴル人たちを粛清して、国境防衛を固めてから、内地の文化大革命に専念するようになったのである。(楊海英)

  二、内モンゴルの文化大革命

 内モンゴル自治区の成立と共に、内モンゴル人民革命党は中国共産党によって解散を命じられた。

自治区政府の主席に西部トゥメト地域出身のウラーンフ(以前の雲澤)が就き、東モンゴル出身で、内モンゴル人民革命党指導者のハーフンガは副主席になった。無論、ハーフンガには何の実権もなかった。

 一九六五年五月、内モンゴル大学の書記を担当していた漢人の郭以青はウラーンフにこんな手紙を書いた。

 内モンゴル東部出身のモンゴル人幹部たちのなかに民族分裂主義者集団がいる。それはかの内モンゴル人民革命党だ。彼らは貴殿、ウラーンフ主席に反抗的だ。

 ウラーンフは郭以青の計略に嵌った。自分と同じ西部のトゥメト地域出身の「延安派」を大量に重用して、「偽満洲国出身の幹部たち」あるいは「日本刀をぶら下げた連中」と称される東部出身者たちを追放した。郭以青はこの一件でウラーンフに抜擢されて内モンゴル自治区党委員会代理常務委員兼宣伝部長になった。

 一九六六年五月から、内モンゴルの高級幹部たち計一四六人が北京市内にある前門飯店に召集された。「中国共産党華北局前門飯店会議」と呼ばれる会議の席上で郭以青は言った。

 ウラーンフは一九六六年二月から反中国、反社会主義の活動を展開していた。彼は西部出身者を重要し、東部の幹部たちを疎遠にしていた。

 このように、郭以青は嘘の証言をした。

 前門飯店華北局会議を中国共産党華北局第一書記の李雪峰が主催した。会議は七月二五日まで続いた。その主な日程と段取りは以下の通りである。

 六月五日:

 華北局書記の解学恭は、ウラーンフが以前に内モンゴル自治区で繰り返し呼びかけた「反大漢族主義」運動は、「実質上は反中華で、反共産党、反社会主義的なものである」と結論付けた。ウラーンフはかつて毛澤東が一九三五年に書いた「中華ソヴィエト政府の対内モンゴル人民宣言」(「三・五宣言」とも言う)を配布したのも間違っている、と批判された。

 六月七日:

 華北局第一書記の李雪峰が次のように発言した。

 内モンゴル自治区党委員会が反修正主義を言わずに、専ら反大漢族主義を強調してきたのは間違っている。階級闘争を言わずに民族問題を強調してきたのも間違っている。内モンゴル自治区党委員会は修正主義者らによってコントロールされている。

 六月八日:

 李雪峰は華北局から二三人の幹部たちを北京市内の前門飯店に呼び寄せて、内モンゴル自治区からの幹部たちに圧力をかけた。また、中共中央組織部副部長の趙漢、中共中央統一戦線部副部長の劉春らも会議に加わった。

 六月一四日:

 ウラーンフは批判闘争に耐えられず、自分に「民族差別的な偏見がある」と認めさせられた。

 六月一九日:

 ウラーンフの甥で、内モンゴル自治区赤峰軍分区の指導者雲成烈がウラーンフ批判に不満を表し、「山に入ってゲリラをやってもいい」と発言した。内モンゴル軍区内の中国共産党側に立つ「左派」たちは慌ててフフホト市に戻って軍の動向をコントロールしようとした。

 六月二二日:

 河北省張家口市で「四清運動」(政治、経済、組織と思想を清くする運動)に参加していた華北局の幹部たちが急遽、北京に呼び出された。彼らは前門飯店での会議に参加した後に、内モンゴル自治区へ派遣された。口実は、ウラーンフが来る一九六七年に、つまり内モンゴル自治区成立二〇周年に併せてクーデターを計画していたので、それを防ごうとのことだった。政府を転覆して「内外モンゴルの統一」を図ろうとしている、と解釈された。そして、ウラーンフの嫡系部隊はモンゴル人の多い騎兵第五師団とされた。

 七月二日:

 劉少奇と鄧小平が二人でウラーンフを呼びつけて厳しい批判を加えた。

 七月一五日:

 内モンゴル自治区自治区書記処書記の高錦明がウラーンフ批判を展開した。その主旨は以下の通りである。

  一、 ウラーンは反共産党で、反社会主義、反毛澤東思想の間違いを犯して、民族分裂主義に走り、祖国の統一を破壊しようとした。ウラーンフは内モンゴルを祖国の領土から分裂させて、モンゴル修正主義者国家と合併させて、大モンゴル国を創ろうとしている。元朝が滅んでからモンゴル族が統一されたことのない情勢を挽回しようとしている。自らの手でモンゴル族を統一させようとしている。彼は現代のチンギス・ハーンになろうとしている。

  二、 中国共産党が過去に出した「中華ソヴィエト政府の対内モンゴル人民宣言」(三・五宣言)を根拠に、隣接する各省から土地をもらおうとした。長城以北の土地をすべて内モンゴル自治区に入れて、更にはモンゴル人民共和国と合併させようと企てている。

  三、 ウラーンフは「反大漢族主義」のみを宣伝し、「地方民族主義にも反対する」という毛澤東思想を無視した。「民族問題はつまるところ階級問題だ」とする毛澤東思想に抵抗し、ウラーンフは逆に「階級闘争の本質は民族問題だ」とすり替えた。

  四、 「四清運動」の推進を阻害した。民族問題を持ち出して「四清運動」を阻止した。内モンゴル自治区で自然災害が発生した時には政治を無視してひたすら家畜を守ろう、という間違った政策を打ち出して革命運動を阻害した。

  五、 修正主義の「三つの基礎理論」を出した。それは、「モンゴル人の共産党員を増やす政治基礎、農業と牧畜業を結合させようとする経済基礎、モンゴル人が中国語を学び、中国人もモンゴル語を学ぶ、相互学習による文化基礎」の三つである。自らが出した「三つの基礎」を強調し、社会主義の階級理論やマルクス理論を学ぼうとしなかった。

 六、 政府機関のモンゴル化を進めた。クーデターによって自治区政府の権力を掌握した。「延安民族学院出身」のトゥメト旗のモンゴル族とウラーンフに追随する一握りの漢人のみを重用した。「地下の書記局」などの闇組織を作った。内モンゴル以外から来た革命幹部たちを無視し、モンゴル人のみからなる軍隊を作ろうとした。人民解放軍が草原を開墾し、野生ガゼルを狩るのにも反対した(4)。

 *(4)内モンゴルの草原が破壊され、沙漠化が進み、黄沙が世界中に飛ぶようになったのは、漢人農民による開墾の結果である。そして、一九六〇年代以前の草原には多数の野生動物が生息していたが、それらも人民解放軍の自動小銃による殺害で絶滅してしまった。ウラーンフはこうした外来の漢人たちのやり方に抵抗していたことが、彼に対する批判から読み取れる。

 七月一九日:

 華北局書記の解学恭は演説し、ウラーンフの罪は「民族分裂主義で、修正主義で、反社会主義、反毛澤東思想」だと決め付けた。

 七月二五日:

 内モンゴル自治区自治区書記処書記の高錦明が再度演説した。それは次のような内容だった。

 内モンゴルにはウラーンフの徒党が大量にいる。彼らを粛清しなければならない。そのためには山西省、河北省から二〇〇名の幹部たちを動員する。内モンゴルにはソ連やモンゴル人民共和国のスパイたちがたくさんいる。

 七月二七日:

 華北局は「ウラーンフの間違い問題に関する報告」を共産党中央委員会に提出した。ウラーンフの罪は五つあった。

  第一、反中国共産党。

  第二、反社会主義。

  第三、反毛澤東思想。

  第四、祖国の統一を破壊し、民族分裂主義の独立王国を創ろうとした。

  第五、内モンゴルにおける最大のブルジョア路線を歩む実権派。

  七月二八日:

 中共中央華北局からの幹部八〇余人、中央組織部からの一〇数人、国家民族事務委員会からの一〇数人、山西省と河北省からの二〇〇人、合わせて三〇〇人を超す漢人幹部たちがフフホト市に入り、権力を掌握した。そのリーダーは華北局書記の解学恭で、ほかに李樹徳、康修民などがいた。

 いわゆる「三・五宣言」には「内モンゴルの領土の保全を尊重する」という内容があった。中華人民共和国成立後、河北省や黒竜江省、吉林省、遼寧省、それに甘粛省と陜西省に占領されていた地域のモンゴル人たちはみんな内モンゴル自治区への返還を強く希望していた。漢人が絶対多数を占める省に住む弱小のモンゴル人の要望に応えようとして、ウラーンフは毛澤東の「三・五宣言」の存在に言及し、それを印刷して配布していた。この行動が「分裂主義の証拠」となったわけである。

 また、一九六〇年代になると、中ソ対立が目立ってきた。ソ連との一戦を想定していた漢人高官たちは、モンゴル人をまったく信用していなかった。特に、政治と軍の権力を一身に集めたウラーンフの存在は決して許されるものではなかった。ウラーンフが「階級闘争を推進しなかった」云々は表向きの口実に過ぎず、単純にモンゴル人の指導者とエリートたちを粛清したかったのが、真の理由であった。

三、モンゴル人ジェノサイドの実態

 文化大革命中の内モンゴル自治区において、三四万六六五三人が「内モンゴル人民革命党員」とされた。そのうち一万六二二二人が殺害され、八万七一八八人に障害が残った。この政治的キャンペーンを「内モンゴル人民革命党員をえぐり出して粛清する運動」と呼ぶ。中国語では「?ワ ー粛ソ 」と表現する(以下、?粛と略す)。当時、内モンゴル自治区に住んでいたモンゴル族の人口は一四〇万人弱だった。少なくとも、約三分の一のモンゴル人が逮捕されていたことが分かる。

 三四万六六五三人が「内モンゴル人民革命党員」とされ、一万六二二二人が殺害されたという数字は一九八〇年に中華人民共和国最高検察院特別検察庁において「?粛運動」が取り上げられた時のデータである。

 一九八九年に内モンゴル自治区共産党委員会が被害者たちに名誉回復を決定した際には、およそ四八万あまりの人たちが「内モンゴル人民革命党員」として「えぐり出された」(?出来)と公表している。国境地帯に住むモンゴル人七九五〇戸を内地へ強制移住させ、その過程で約一〇〇〇人の死者が出ている。

 以上の数字は、?粛運動の最中に、つまり批判闘争の現場において殺害ないしは障害を負わせた人たちについての統計である。運よく解放されて家に帰ってから、革命大衆による暴力が原因で亡くなった人たちの数は計り知れない。

一 シリンゴル盟の事例

 一九七〇年代初期のシリンゴル盟には約一四万五〇〇〇人のモンゴル人と、四三万三〇〇〇人の漢人がいた。このデータから一九六七年頃の人口構成をある程度推測することが可能であろう。(楊海英)

 シリンゴル盟では一八六三人のモンゴル人が殺害された。その際、以下のような野蛮な方法が用いられた。上が日本語訳で、下は中国語のオリジナル表現である。

  頭を下げさせる:低頭

  拷問:拷打

  梁に吊るし上げて拷問する:吊打

  舌に針を刺す:舌頭扎針

  裸足で火の上で踊らせる:光脚火上跳舞

  ペンチで歯を抜く:鉄子抜牙

  ……

一.一 残虐行為

 スニト右旗チャガン・ホショー大隊には二六戸のモンゴル人が住んでいた。そのうちの二〇戸が外来の漢人たちによって「搾取階級の牧主」の身分にされた。「牧主」とは漢人地域の「地主」に相当する概念である。「搾取階級」に認定されたモンゴル人たちはその放牧地から追い出され、代わりに漢人たちが彼らの故郷に住み着いた。モンゴル人たちは着の身着のままで洞窟のなかで五、六年間も暮らすしかなかった。

 シリンゴル盟の実権を握っていた「人民解放軍軍事管理委員会」は、一九六九年五月二二日に毛沢東が「内モンゴルにおける〈内モンゴル人民革命党員をえぐり出し、粛清する運動〉(?粛)はやや拡大してしまった」との指示を出した後も、迫害を止めようとしなかった。例えば、?黄旗の農牧部長トプチンがリンチに耐えられなくなって他の数十人を「内モンゴル人民革命党員」だと認め、自分もその一員であると自白させられた。五月二二日以降も、人民解放軍の漢人軍人たちは彼が自らの「証言」を撤回するのを拒みつづけた。引き続きトプチンを「模範的な犯人」として扱った。トプチンは自責の念から自殺を選んだ。

 同じく?黄旗の公安局と検察局、それに裁判所に計三〇名のモンゴル人幹部が勤めていたが、例外なく粛清された。罪名は「チンギス・ハーンの子孫で、ウラーンフの猛将」だった。人民解放軍の兵士たちの暴力を受けて、この旗のモンゴル人の死傷者の数は一二〇人に達した。 正蘭旗ポーシャタイ小学校は一九一六年に成立し、内モンゴルでもっとも早い時期にできた学校の一つだ。三百五〇人のモンゴル人の寄宿生がいて、広大な草原に千頭もの家畜を放し、付属の牛乳加工工場やソーダ加工場もある、裕福な学校だった。文化大革命中はこの学校が「民族分裂の巣窟」とされ、設備もことごとく破壊され、略奪された。数十名のモンゴル人教師たちも「内モンゴル人民革命党員」とされた。そのうち、書記のプルプは腕が折られ、耳がちぎられて殺害された。 シリンゴル盟に駐屯する人民解放軍の趙徳栄司令官は次のように演説した。

 おれはモンゴル人を見ただけで気分が悪くなる。シリンゴル盟の全モンゴル人たちをえぐり出して粛清しても、全国から見れば、ごく僅かだ。

 趙徳栄司令官はまた一九六八年五月に次のように政府の会議で発言した。

 内モンゴルの解放軍部隊にいるモンゴル人兵士たちのなかには悪いやつが多い。政府機関にもろくなやつは一人もいない。文化大革命を利用して、モンゴル人たちをしっかりとやっつけよう。

 モンゴル人といえば、良いやつは一人もいないのだ。

 モンゴル人たちを百パーセント内モンゴル人民革命党員として粛清しても間違いではない。やつらが死んでもびっくりすることは何もない。大したことではない。モンゴル人たちが一人ずつ死んでいけば、我々は大変助かる。

 趙徳栄司令官のスピーチを受けて、シリンゴルに駐屯していた内モンゴルの四九四七部隊内の小隊長以上のモンゴル人将校は全員粛清された。その人数は三百四三人に達する。

 スニト右旗は、モンゴル族の高度の自治を目指してさまざまな努力を続けてきた徳王(デムチュクドンロプ、一九〇〇~一九六六)の故郷である。毛澤東に派遣された滕海清将軍は自ら人民解放軍を率いて旗を訪れ、「?粛の任務」を明示した。滕海清はまた旗の民兵組織を統括する武装部にも粛清への協力を命じて、次のような訓示を出した。

 スニト右旗では祖国を裏切って修正主義のモンゴル国に投降しようとしたやつがたくさんいるはずだ。彼らは全員ウラーンフの家来だ。階級闘争というのは、彼らと闘争することだ。スニト右旗の状況はきわめて複雑だ。しかし、四、五〇パーセントのモンゴル人は良いやつだろう。

 滕海清将軍の指示を受けて、スニト右旗ではさまざまな「内モンゴル人民革命党」の「変形組織」や「下部組織」が「えぐり出された」。題して「統一党」、「沙漠党」、「黒虎庁」、「白虎庁」など、あわせて三〇以上もある。「内モンゴル人民革命党員」とされたモンゴル人は八〇〇〇人で、この旗に住むモンゴル族全成人人口の五五パーセントに達する。そのうち、一〇九人が残忍な方法で殺害された。

 「?粛」の基準は唯一つ、モンゴル人か否かだけである。スニト右旗のサイハンウルジ公社、ブトゥムジ公社、ノガンノール公社では、モンゴル人の幹部たちは例外なく粛清され、代わりに漢人たちが幹部に任命された。ノガンノールに駐屯する李という人民解放軍の将校は次のように演説した。

 かつてウラーンフはお前らモンゴル人たちを重用した。今回のような文化大革命がなければ、われわれ漢人たちはみんな殺されているだろう。お前らモンゴル人たちは偉大な中国共産党のものを食って、着て、それでまた共産党に対して悪いことをしておる。今や偉大な領袖毛澤東の時代だ。ウラーンフの時代ではないぞ。

 滕海清将軍の部隊を率いてスニト右旗に進駐していた解放軍の副政治委員は漢人の陳氏で、副参謀長は邱氏、副指導員は高氏だった。彼らは次のような指示を出した。

 「スニト右旗の大地を三尺掘ってでも、統一党を見つけ出そう」

 人民解放軍の兵士たちはその指示通りに百軒以上ものモンゴル人の民家に入って床を掘っては罪状を探した。その成果として八〇〇〇人ものモンゴル人が「反革命的な内モンゴル人民革命党員」とされたのである。プトゥムジ公社に進駐していた劉という漢人の小隊長は言った。

 モンゴル人たちが全員死んでも大した問題はない。我が国の南方にはたくさん人間がいる。モンゴル人たちの生皮を剥ごう。

 ノガンシリ生産大隊では、一四歳以上のモンゴル人に対し、全員「内モンゴル人民革命党員」として登録するよう強制した。六七歳になるダムディンソー老も怖くなって生産大隊の本部を訪れて登録しようとした。彼女は中国語が話せないので、生産大隊の本部へ向かう途中にずっと「統一党」、「統一党」と繰り返し暗記していた。ところが、いざ本部に着くと、怖くなって忘れてしまい、もう一度帰って覚えてから登録したことがある。

 東ウジムチン旗エヘボリク牧場では、モンゴル人幹部が全員粛清された。変わりに北京からやってきた漢族の知識青年たちが権力を握った。彼らは次のように公言していた。

 「おれたちは、モンゴル人をやっつけるために来たのだ」

 「モンゴル人たちが漢人を殺そうとしている。戦争になったら、モンゴル人たちは北へ、漢人たちは南へ行こう」

 「モンゴル人遊牧民の八〇、九〇パーセントが内モンゴル人民革命党員だ。モンゴル人は信用できない」

 東ウジムチン旗塩池公社の供社の主任ドンルプがある日、行方不明となり、政府はただちに彼を指名手配した。ある人は「ドンルプはモンゴル人民共和国の兵士を連れて国境地帯を巡回している」と言いふらしていた。そして、その家族も「偉大な祖国を裏切った者の親族」とされて、群衆による「人民独裁」の暴力を受けた。一九七二年、塩を掘っていた人たちが塩池のなかから遺体を見つけた。塩漬けになっていたためか、ドンルプの遺体は腐敗していなかった。ドンルプは「修正主義国家」へ逃亡したのではなく、殺されてから塩湖に捨てられたのである。

 西ウジムチン旗バチ公社の書記チョイジジャムソは実直な性格で、いくら殴られても、自分は「内モンゴル人民革命党員」ではない、と断りつづけた。漢人大衆は彼を梁から吊るして、火で炙り、ナイフで体を傷つけた。食べ物も水も与えずに閉じ込められていた。そして、最後には漢人の知識青年李秀栄が鉄器で彼の頭を猛撃し、脳漿が部屋中に散って亡くなった。チョイジジャムソの夫人ヤンジマーが盟政府所在地のシリンホトへ上告に行くが、盟政府は受理しなかった。漢人の李秀栄は更にヤンジマーの後を追ってきて、もしこれからも上告するならば、ヤンジマーの子どもたちを殺す、と脅かした。

 西ウジムチン旗ゴリハン牧場のあるモンゴル人は頭部に釘を七本打たれた後に、井戸のなかに投げ込まれた。

 スニト左旗のある退役軍人のモンゴル人が「内モンゴル人民革命党員」とされて、繰り返しリンチされた。かつて革命軍隊にいた頃に怪我した古い傷からことごとく血が出るようになった。漢人大衆は「これはお前に対する二度目の褒章だ」と言って暴力を続けていた。

 スニト左旗バヤンボラク公社の社長トゥメトが漢人たちに殺害された後、その夫人は夫の遺体をずっと埋葬せずに保存しつづけた。彼女はこのように言った。

 生産大隊の子羊が死んでも、その死因を調べる時代だ。何故、人間が殺されても何もかも不問にするのか。どういう時代なのだ。

 一九七六年に文化大革命が終息を宣言されて、毛澤東の夫人をはじめとする「四人組」が逮捕された後に、彼女は夫を埋葬した。

一.二 レイプなど性的な侮辱

 モンゴル人たちを拷問にかけている間、多くの女性たちがレイプされた。たとえば、スニト左旗では漢人の「知識青年」たちがモンゴル人女性を「人民大衆による独裁」(群衆専政)下におき、目隠しをしてから繰り返し強姦した。その結果、何人もの女性が妊娠させられた。正蘭旗ではアディアという二〇代のモンゴル人女性がレイプされ、その上、長期間リンチされつづけた。

 スニト右旗バヤンノール公社に住むある遊牧民は、一九六九年六月二七日に一人で政府にやってきて陳情した。彼によると、解放前には国民党の匪賊に家族六人のうちの三人を殺害されたという。そのため、彼は何があっても毛澤東主席についていこうと決心していた。ところが、漢人たちは彼を裸にしてリンチし、そして一八、九歳の娘たちに見せながら、「毛主席に謝罪しろ」と強要した。

 また、スニト右旗バヤンノール公社ドントウス大隊に住むトンデゲは次のように政府に訴えた。

 一九六八年一一月一〇日、トンデゲは「政治学習班」に入れられ、髪を切られた上、同じ「政治学習班」にいたバトトクト、デレゲルらの髪とまぜて女性の陰部の形に編まれて、侮辱された。そして、ここでもまた「毛主席への謝罪」を何度も求められた。

 同じスニト右旗バヤンジュリヘ公社バヤンタラ大隊の遊牧民ハルラー一家四人全員が「内モンゴル人民革命党員」とされた。漢人たちは彼らを裸にして、息子とその母親、義父と嫁が性行為をするよう強制した。侮辱に耐えられずに、義父は井戸に身投げして自殺し、嫁は首吊り自殺し、息子は刀で自害した。そして、残された母親も狂った。

 東ウジムチン旗ボラク公社では、革命的な漢人大衆が老齢のツェベクジャブ夫婦とその息子夫婦を逮捕し、群衆の前で息子とその母親、義父とその嫁とが性行為をするよう強制した。一家が抗議したところ、漢人大衆はその母親を地面に抑えて、息子を体の上に乗せた。そして、義父と嫁をも同じ方法で侮辱した。漢人たちはそのような蛮行をやりながら、「恥ずかしいのか?お前らモンゴル人は昔からこんなものだろう」、と言いながら笑っていた。ツェベクジャブの夫人は家に帰ってまもなく自殺した。

二 イケ・ジョー盟の事例

 イケ・ジョー盟では合計一五万人の人々が「内モンゴル人民革命党員」とされた。当時、盟全体の人口は約七四万人で、そのうちの約二一パーセントを占める。モンゴル族はほぼ全員、「内モンゴル人民革命党員」とされた。

 殺害された人は一二六〇人で、五〇一六人が傷害を負わされ、二三二二人に身体的な障害が残った。そして、完全に生活能力を失った人は七三九人に達する。殺された幹部のうち、一一人が旗政府の旗長で、課長級は一五〇人、生産大隊や小隊の長は五〇〇人になる。そのうち、ハンギン旗の死者は一一八人で、ウーシン旗は一四九人である。

二.一 政府も認めざるを得ない虐殺の実態

 ここで、「中国共産党イケ・ジョー盟委員会政策実施委員会(落實政策弁公室)」が一九七八年八月五日に出した『簡報』内の報告を見てみよう。

 京字×××部隊の一個連隊がイケ・ジョー盟ウーシン旗のトゥク(圖克)公社に駐屯している間に、多数のモンゴル人が殺害された。

 トゥク公社の人口は二九六一人で、そのうち九二九人が「内モンゴル人民革命党員」として「えぐり出された」。この数字は、全成人人口の七一パーセントを占める。そして、二七〇人が「犯人」扱いされ、四九人が殺害された。重度の障害が残った者は二七〇人になる。漢人を除いて、共産党員、共産主義青年団員、民兵になっていたモンゴル人全員が「犯人」とされた。

 モンゴル人の草原は「大モンゴル帝国の馬の放牧地」だと断罪された。灌漑に使う井戸も「モンゴル人がクーデターのために用意した井戸だ」と批判された。

 モンゴル人を迫害するのに、わざわざ隣の陜西省から漢人たちを動員してきた。盲流と呼ばれて、目的もなく各地を放浪していた漢人のフェルト職人が「内モンゴル人民革命党員をえぐり出す積極分子」として登用された。

 人民解放軍の兵士たちはモンゴル人を迫害するのに五〇種以上の刑罰を用いた。具体的には以下のような残虐行為が横行していた。

 一、 棍棒を燃やして真赤にしてから女性の陰部や腹部を焼いた。被害にあった女性は陰部が破壊されて男性か女性かの区別もつかなくなった。腹部が破られてなかの腸も見えるように大きな怪我を負わせた。

 二、 牛皮で作った鞭の先に鉄線を付けて人を殴る。打たれる度に皮膚が破れ、血が噴き出るが、少しも治療をさせない。そのように打たれた人は結局放置されて亡くなった。打たれて壁中に散った血の匂いは長く消えなかった。また、怪我した人間の傷口に塩を撒いたり、熱湯をかけたりして、殺害した事例もある。

 三、 太い鉄線で人間の頭部を巻いて、ペンチで徐々にきつくしていき、頭部を破裂させた事例もある。

 四、 「反革命的な犯人」とされるモンゴル人を燃えるストーブのすぐ傍に押さえて、長時間にわたって焼いた。真赤に焼いた鉄のショベルを人間の頭の上において焼き殺した実例がある。

 五、 両手を後ろ手に縛ってから梁の上から吊るして脱臼させた。また、吊るし上げた紐をナイフで切って、地面に叩き落されて死亡させた例がある。

 六、 モンゴル人女性を丸裸にして立たせ、牛の毛で作った太い縄を跨がせてから両側から繰り返し引っ張りあった。その結果、女性の陰部はひどく破壊された。

 七、 人民解放軍の兵士たちはモンゴル人の男を殺害して、その妻を繰り返しレイプした。モンゴル人少女を強姦した事例もある。

 八、 モンゴル人の財産を略奪した。ある漢人兵士はモンゴル人の貴重な腕時計を奪った。モンゴル人が盟政府所在地の東勝まで追いかけてゆき、返すようにと求めたが、まったく無視された。

 もちろん、この連隊に良心的な兵士もいた。そのうちの二人はモンゴル人たちが迫害されているのに疑問を示したことで、ただちに除隊の処分を受けた。

 以上は中国共産党政府がその発行を一時的に認めていた資料に掲載された報告である。この他の実例を見てみよう。

二.二 残虐行為

 イケ・ジョー盟エジン・ホロー旗のソブルハン公社の書記バータイは舌を切られた。東勝県の副武装部長の陳福廷は四七種の刑罰を受け、一六回も刀で刺された。

 既に触れたウーシン旗トゥク公社の事例だが、トゥク公社トゥグルダイ生産大隊の漢人陳文奎、馬藍芳夫妻はモンゴル人たちを自宅へ連れてきて連日昼夜にわたって拷問にかけた。この漢人夫婦は五〇種以上ものリンチ法を考え出していた。漢人夫婦が直接殺したモンゴル人は三人で、その外にも三〇数名に重傷を負わせている。

 漢人たちはまたウーシン旗トゥク公社トゥグルダイ生産大隊の大隊長のバトセレン夫婦に暴力を加え、夫人のお腹の中にいる胎児も「内モンゴル人民革命党員だ」と認めるよう強制した。

 トゥク公社メイリン・スメ大隊の書記ダンセンは、口の中に馬のハミを付けられた上、漢人たちに乗られた。そして、最後にダンセンは刀で殺された。

 シディというモンゴル人の家族は、八三歳の祖父と生まれてまだ四三日間しか経っていない赤ん坊まで、一家六人全員が「内モンゴル人民革命党員」だとされた。シディの夫人も長期間にわたってリンチされた。そして、赤ん坊も死んでしまった。

 トゥク公社の副書記セムチュク一家は、九歳になる女の子だけが生き残り、他の家族四人がすべて殺害された。漢人大衆と人民解放軍の兵士たちは「モンゴル人が死んでいけば、食料も節約できる。内モンゴル人民革命党員が死んでいけば、我々漢人の心配もなくなる」、と話し合っていた。

二.三 性的な虐待

 イケ・ジョー盟の女性幹部の白秀珍(モンゴル人)は繰り返しレイプされた挙句に、鉄棒を陰部に入れられ、体内がひどく破壊された。そして、彼女の遺体は井戸のなかに捨てられて、「自殺」とされた。

 モンゴル人のトゥメンジャラガルはさまざまな暴力を受けた後、その嫁の股をくぐるよう命じられた。

 ウーシン旗トゥク公社の副書記で、若い女性のチョロモンは丸裸にされてから、連続五昼夜にわたってリンチされつづけた。同じくウーシン旗トゥク公社の幹部ドンルプは一二種の暴力を受けて吐血した。それでも、ドンルプにロバやブタなどとの性行為を強制した。そして、ロバやブタの真似をさせ、「モンゴル人たちは畜生だ」と罵倒していた。

三 ウラーンチャブ盟の実例

 ウラーンチャブ盟には一九七〇年代初期に約五万七〇〇〇人のモンゴル人と二百七〇万人の漢人大衆が住んでいた。一九六七年における人口構成比もさほど変わらないだろう。(楊海英)

 ウラーンチャブ盟の犠牲者は死者が一六八六人で、負傷者は八六二八人で、身体に障害が残った者は四六五〇人に達する。そのうち、チャハル右翼後旗では二〇〇人のモンゴル人が殺害された。この旗のウラーンハダ公社サイハンタラ生産大隊では、「解放軍毛澤東思想宣伝隊」や漢人の「貧下中農毛澤東思想宣伝隊」の指揮下で、一八日間で一八人が殺され、三三人が重傷を負った。平均して、毎日一人のモンゴル人が殺害されていた。このような残虐な殺戮を働いた「解放軍毛澤東思想宣伝隊」や「貧下中農毛澤東思想宣伝隊」のメンバーたちは例外なく内モンゴルの外からやってきた漢人たちである。また、漢族の知識青年や目的もなく放浪していた漢人たち(盲流)も積極的に加わっていた。

三.一 残虐行為

 ウラーンチャブ盟盟政府計画委員会のビリクトは、漢人たちにペンチで歯をむりやりに抜かれた上、鼻と舌も切除された。ビリクトは結局敗血症で亡くなった。

 チャハル右翼前旗煤公社バヤン生産大隊には合計三七戸、一四六人のモンゴル人が住んでいた。そのうちの八八人が「内モンゴル人民革命党員」とされ、一七人が殺害された。同旗のサイハンウス公社の三四戸一五五人の住民のうち、二十歳以上のモンゴル人は全員が「民族分裂主義者」とされ、一〇人が殺害された。

 四子王旗チョクト公社の治安保衛主任のモンゴル人を殺害した後、漢人たちは彼の遺体を隠して、「モンゴル人民共和国へ逃亡した」と発表し、その家族をも捕まえてきてリンチを加えた。しばらく経ってから、殺害されたモンゴル人の遺体が雪のなかから見つかったが、野犬に食われていた。

 同じ四子王旗の郵便局に勤めていたモンゴル人のボルジョは「民族分裂主義者集団の内モンゴル人民革命党員」とされて逮捕された。家屋の梁から吊るされた彼の体には更に三五キロもある石がぶら下げられた。そして、体に強い電流が通されて精神的に異常となった。一九七〇年二月、彼に繰り返し暴力を振るっていた漢人の劉玉柏、尤学忠がフフホトの病院に連れて行くと称して連れ出したが、行方不明となったとして帰ってきた。

 ボルジョの母親が息子を一目見ようとして遥々内モンゴル東部のクレー旗からやってきたところ、またもや漢人たちに批判闘争大会に連れて行かれ、暴力を振るわれた。

 四子王旗では、親が逮捕されたために、残された幼い子どもがストーブの火を起こそうとして火事となって焼死してしまった例がある。また、若者が逮捕されたために、体の不自由な老人が凍死した実例もある。

三.二 性的な虐待

 ウラーンチャブ盟共産党学校の教育長ルーイ(如意)は、生殖器に紐を付けられて、無理やりに引っ張られて、完全にちぎられた。

 集寧市条(熔接)工場の書記で、女性の韓淑英は裸にされてから、陰部の毛をペンチでむしりとられた。

 四子王旗バヤンオボー公社では、公社書記のノルブジャムソが郵便局に勤める漢人の潘秀玉によって刀で背中を大きく切られた。そして、傷口には大量の塩を入れられ、更に体中を鉄のアイロンで痛めつけられた。ノルブジャムソが殺害された後、その夫人のドルジソーは漢人たちに何回もレイプされた。そして、熱く焼いた鉄棒を陰部に入れられて、殺害された。二人の間に生まれた五ヶ月未満の赤ん坊も面倒を見る人がいなく、凍死した。

 同じ四子王旗バヤンオボー公社では、公社の秘書をやっていた若いモンゴル人夫婦は刀で体中を傷つけられてから、傷口に塩を撒かれた。夫の死後には夫人が漢人たちにレイプされ、陰部が火で焼かれた。夫人の死後、残された赤ん坊はまだ母親の死を知らずに、その乳房を吸っていた。

 卓資県では一万三〇〇〇人もの人々が「内モンゴル人民革命党員」とされ、九五人が殺害された。残忍な虐待方法は一七〇種以上になり、多くのモンゴル人女性たちがレイプされた。馬連?大隊の書記の夫人は四〇人に繰り返し強姦された。劉光窖大隊でも若いモンゴル人女性がレイプされた。

 涼城県人民代表大会の主任ナムスライが漢人たちに殺害されてから、その夫人も井戸に身投げして自殺した。残された一六歳の娘はドータグラという。一九六九年五月以降に、彼女もモンゴル人たちが作った「寡婦陳情団」に加わってフフホト市へ上告に来ていた。しかし、漢人たちは「寡婦団のなかに娘がいる」、と言って彼女の人権を侵害していた。

三.三 強制移住

 強制移住はだいたい夜に人民解放軍の兵士たちが突然やってきて命令を出して、モンゴル人全員をトラックに乗せて人民公社の本部に無理やりに連れて行かれる、という方法を取っていた。そして、人民公社の本部で初めて強制移住が伝えられて、すぐに実施に移されていた。簡単な生活用品以外は何も持っていけなかった。家畜や家屋、そして家財道具類などはすべて放棄せざるを得なかった。ウラーンチャブ盟だけでも、モンゴル人たちの財産の損失額は四二万元に達する。 チャハル右翼後旗でもモンゴル人民共和国に近いところに住んでいたモンゴル人七五戸が内地へ強制移住させられた。その代わりに農耕地帯の漢人たちが彼らの草原に入って住み着いた。

 四子王旗のバヤンオボー公社ダライ生産大隊には合計二三戸のモンゴル人がいた。そのうちの二一戸が一九六九年九月に強制移住させられた。彼らが去った後には、五七戸の漢人たちが入植した。

四 バヤンノール盟の事例

 大虐殺が始まった一九六七年のバヤンノール盟における人口統計は不明であるが、一九七〇年代初期には、約三万九〇〇〇人のモンゴル人と百一八万人の漢人がいた。(楊海英)

 バヤンノール盟では全部で八四一五人が「内モンゴル人民革命党員」とされ、三六三人が殺害された。重傷者は三六〇八人である。この盟では、モンゴル人から生まれたばかりの赤ん坊も「反革命的な内モンゴル人民革命党員」とされた。

四.一 残虐行為

 国境に近いウラト中後連合旗でサンゲンダライ公社のモンゴル人ダムバ夫婦が殺害された後、四人の子どもが残された。そのうちの一人が水死し、一人が凍死し、もう一人も精神的に異常をきたして亡くなった。最後に残ったただ一人の子どもは親戚の者が面倒を見ることになった。

 同じ旗の呉清雲は舌を切られた。呉は東北の遼寧省出身のモンゴル人だった。

 盟政府統一戦線部の部長ソドプは生きたまま頭部に釘を打ち込まれた。脳神経に達していたため、手術も出来ずに薬で延命していた。

四.二 性的虐待

 チョク(潮格)旗のあるモンゴル人はリンチされている間にその夫人と娘が漢人たちにレイプされた。そのモンゴル人もやがて死亡した。同じ旗のウリジ公社のデレゲルバトは一〇数ヶ月間にわたって幽閉され、繰り返しリンチされた。その間に家の財産は略奪され、夫人と娘は漢人の章愛良に繰り返しレイプされた。夫人はまもなく亡くなった。

四.三 軍事管理

 ウラト中後連合旗バイン公社イケ・ボラク生産大隊では、六〇戸の人が住んでいたが、そのうちの漢人一五戸を除いて、すべて「信用できないモンゴル人」とされ、厳しい軍事管理下におかれていた。

五 ジェリム盟の事例

 ジェリム盟では計四万八五〇〇人が「内モンゴル人民革命党員」とされ、三九〇〇人が殺害された。一万四〇〇〇人が重傷を負わされた。

 ジェリム盟に駐屯する人民解放軍の趙玉温司令官は次のように共産党大会で演説していた。

 ジェリム盟の敵は多い。モンゴル人だけで七〇万人もいる。ジェリム盟は社会情勢が複雑だ。

ウラーンフの勢力が強い。ジェリム盟は大スパイ、たくさんの裏切り者たちのベースキャンプだ。

 趙玉温司令官はまた漢人地域から大量の漢人農民を集めて、「チンギス・ハーンは馬鹿で、岳飛こそ本当の英雄だ。宋代の岳飛のように韃タ ース子たちをやっつけよう」と話した。「韃タ ース子」とは漢人たちが使うモンゴル人に対する蔑称である。

 趙玉温司令官はジェリム盟に「烏・石・雲反党叛国集団」がいるとして、多くの人々を拷問にかけた。いわゆる「烏・石・雲反党叛国集団」の「烏」は烏蘭夫すなわちウラーンフのことで、「石」は石光華で、「雲」は雲曙碧の略である。雲曙碧はウラーンフの娘で、石光華はその夫である。趙司令官は言った。「ジェリム盟はもっとも反動的なところで、ここは偉大な祖国と共産党に反対するモンゴル人たちの前哨基地だ」。

 趙司令官たちはジェリム盟の一四人からなる政府委員会のうちの一一人を逮捕し、そのうちの二人が殺害された。石光華と雲曙碧夫婦、それから書記のサインバヤルらを長期にわたって監禁し、あらゆる方法で虐待しつづけた。

五.一 残虐行為

 人民解放軍の趙玉温司令官の動員もあって、モンゴル人社会に甚大な被害がもたらされた。ジェリム盟軍事管理委員会の漢人李国珍と杜誠らは鞭を持って「学習班」に強制収容されたモンゴル人たちに暴力を振るった。そして、「革命は飯を食ったりして宴会を開いたりするものではない。敵を打倒するものだ」と暴言を吐いていた。盟政府の裁判所や検察、公安に勤めていたモンゴル人八一人のうち、五七名が「祖国と人民に対して罪を犯した内モンゴル人民革命党員」とされた。

 趙玉温司令官らは以下のような残忍な方法でモンゴル人たちを虐待した。

  ストーブで焼く

  体に電気を通す

  生きたままの人間の生皮を剥ぐ35

  顔に字を焼き付ける

  頭部に釘を打ち込む

  冬に裸にしてから外で凍らせる

 ホルチン左翼中旗では、科長級以上のモンゴル人幹部二一〇人のうちの一九〇人が「反革命的な内モンゴル人民革命党員」とされた。旗の運輸センターのモンゴル人二六名のうち、二三人が「内モンゴル人民革命党員」にカウントされた。モンタ公社の韓珍というモンゴル人がたくさん木を植えたことから、「ウラーンフが祖国に対して反乱を起こした時に使う駒つなぎを用意した」との罪が冠された。彼が自宅に保存していた食糧も「ウラーンフの反乱軍に準備した軍用の食料だ」と断罪された。

 ホルチン右翼中旗の書記ケンソーを殴り殺した後、その内臓を取り出して便所に捨てた。そして、ケンソーの頭蓋骨に小便をかけて侮辱した。

 既に文化大革命以前に死去していた者まで、「内モンゴル人民革命党員」とされた。たとえば、ホルチン左翼中旗では、以前に亡くなったモンゴル人ポーショーシンガの墓が漢人たちに破壊され、その遺体が引き出されて侮辱された。

 ホルチン左翼中旗の巨流河牧場では趙玉温司令官が自ら指揮を取り、一七〇〇名いた職員のなかから一七〇名を「内モンゴル人民革命党員」と断罪し、そのうちの三一人が殺害された。

 『ジェリム報』という新聞社では三人のモンゴル人が殺された。

 ジェリム軍区にいたモンゴル人将校たちも粛清された。政治委員のアグダム、副司令官のフフハダ、参謀長のバダラングイなど二九人が殺害された。

五.二 性的な虐待

 人民解放軍の趙玉温司令らは以下のように女性たちを虐待した。

  集団レイプ

  陰部を鉄で焼く

  陰部を空気入れで膨らませる

  ……彼らが強姦したモンゴル人女性たちのなかには、一〇代の少女も含まれていた。レイプ後に殺害された女性の遺体に赤ん坊が抱きついて、離れようとしなかったことが目撃されている。

五.三 母国語の使用禁止

 人民解放軍の趙玉温司令官はモンゴル人たちに対し、「お前らはロバの言葉を話してはならない」と指示していた。ロバとは漢人たちが使う悪罵である。

 趙玉温司令はある日また、「ジェリム盟では五万人のモンゴル人たちをえぐり出したが、まだ足りない」、と指示した。彼の命令で、ジェリム盟における虐殺は数年間続いた。

六 フルンバイル盟の場合

 文化大革命が発動された時のフルンバイル盟におけるモンゴル族の人口については、私の手元にデータがない。ただし、一九六四年の時点で、フルンバイル盟には約一六万一〇〇〇人の少数民族が居住していたという統計資料がある。モンゴル族の他に、オロチョン族、エベンキ族、ダウール族(ダウール・モンゴル族)、ロシア族などがいた。(楊海英)

 フルンバイル盟では合計四万八五〇〇人が「内モンゴル人民革命党員」とされ、一万四三二九人が逮捕され、二三〇七人が残忍な方法で殺害された。

六.一 残虐行為

フルンバイル盟の商店のなかには、次のような看板があった。

 こら!お前は内人党だ。さっさと登録しなさい。内人党員のお前よ、登録せ!登録せ‼登録せ!!!

 また、バスの入り口にも「内人党員は即刻登録せよ」と書いてあった。マンチューリ(満洲里)の理髪店内では、鏡に「お前は内人党員だろう!」と書いてあった。このように、あらゆる方法でモンゴル人たちに心理的・精神的なダメージを与えていた。

 モリンダワー旗の漢人指導者は、「二週間頑張って、ダウール人たちを全滅させよう」と指示していた。ダウールはモンゴル族と特別な関係にある民族だ。旗の政府委員会を構成していた二二名の委員のうち、一二名のダウール人が全員、「祖国を分裂させようとした統一党」の党員とされた。また、旗内一七の公社に一九〇名のダウール族幹部がいたが、八五名が「統一党」のメンバーとされた。もちろん、「統一党」も完全にデッチ挙げられたものである。漢人たちは、「お前ら韃子はモンゴル修正主義者の国に投降し、牛乳を飲んで我々漢人を殺そうとしているだろう」と言いふらしていた。

 盟のなかのエルグナ河流域には三〇〇〇人ほどのロシア族が住んでいた。彼らと漢族やほかの民族との通婚も進んでいた。しかし、彼らのうちの九〇パーセント以上が「祖国を裏切る反革命集団」にカウントされた。「鼻が大きい」、「混血児」などと言って虐めただけでなく、かれらの母語ロシア語が禁止され、民族衣装の着用も禁じられた。

 大興安嶺の山中に人口約一〇一五名の小さな民族、オロチョン族が住んでいた。彼らもモンゴルと特別な関係にあったため、全人口の二割に近い一九二名が「内モンゴル人民革命党員」とされた。漢人たちは彼らを車に縛りつけて殴りながら、「お前らは畜生だ、これはお前らの最期だ」と言って侮辱していた。また、「一人の韃子を殺せば好漢で、一〇人殺したら英雄だ」と言ってお互いを励まし合っていた。

 ハイラル市の近郊にあるエベンキ族自治旗はエベンキ族の集中居住地である。エベンキ人たちも歴史的にモンゴル人と親しく、みんなモンゴル語を話す。この旗では百パーセントのエベンキ人の幹部たちがありもしない「統一党」員とされた。書記のトゥメンバヤル、旗長のウニンマンドラーをはじめ、二〇人の幹部たちが殺害された。

 ホルチン右翼中旗(5)には六六の共産党の支部があったが、そのうちの四四の支部が「内モンゴル人民革命党支部」とされた。

 ホルチン右翼前旗では一万人以上のモンゴル人が「内モンゴル人民革命党員」とされ、 五〇〇人以上が殺害された。その際、以下のような残忍な方法が取られた。

  ストーブで焼き殺す:坐火炉

  電気でショック死させる:過電

  熱湯を全身にかける:開水澆身

  肛門に空気を入れる:肛門打気

……また、モンゴル人女性を集団でレイプし、乳房を焼くなどの性的な虐待も横行した。「反革命分子」や「民族分裂者」とされた者の身体には「内人党」という三文字が線香で焼かれた。「内人党」とは「内モンゴル人民革命党」の略称である。

 次のような悲惨な出来事もあった。

 旗内のホリン(好仁)公社のある小学校教師が「人民解放軍毛澤東思想宣伝隊」に殺害された。その教師の父親が激怒して息子の頭と血のついた衣類を持参して人民解放軍の幹部たちに見せたところ、無視された。漢人兵士たちから見れば、モンゴル人を虐殺することは、「人民の敵を一掃する作戦」に過ぎなかった。そこには同情も憐憫も何もなかった。

 モンゴル人たちを殺害するだけでは終わらなかった。殺害されたモンゴル人たちの墓の上には、「ウラーンフの頑迷な追随者(烏蘭夫死党分子)」という白い幡が立てられた。これは、漢人社会特有の、亡くなった人を侮蔑する方法である。

 ジャライト旗アラタルト公社に住むモンゴル人のメルゲセは既に六二歳になっており、「中華全国の労働模範」だった。ソ連や朝鮮民主主義人民共和国を訪問した際に、ウラーンフと遇ったことがある。

 そのため、「内モンゴル人民革命党員」とされ、二ヶ月間にわたって、蹂躪された。もっともひどかったのは、連続五昼夜も拷問し、一〇種以上のリンチ方法が使われた。

(5)現在のホルチン右翼中旗は興安盟の一部であるが、文化大革命中はフルンバイル盟に属していた。また、ホルチン右翼前旗、ジャライト旗も同様である。

六.二 母国語の禁止

 フルンバイル盟モリンダワー旗に駐屯する解放軍の兵士は、「ロバの言葉、畜生の言葉を話してはならない」と言って、モンゴル人やダウール人たちが母国語で話すことを禁止していた。

七 ジョーウダ盟(今日の赤峰市)の状況

 ジョーウダ盟では、ほとんどすべてのモンゴル人たちが「反革命的な内モンゴル人民革命党員」とされていた。一九六九年春に中国共産党第九回全国大会が開かれた時に、この盟からモンゴル人代表を選ぼうとしたところ、「反革命分子」や「分裂主義者」以外のモンゴル人がいなかった事実は、当時の悲惨な状況を物語っている。

七.一 残虐行為

 バーリン右旗バヤンハーン公社には約三〇〇〇人のモンゴル人が居住していた。そのうち、三六四名が「内モンゴル人民革命党員」とされた。漢人たちは「内モンゴル人民革命党員はモンゴル人だけからなっている。彼らは我々漢人の首を切ろうとしている」、と言いふらし、デマを広げて虐殺を断行していた。

 同じくバーリン右旗エヘ・ノール公社の書記ラブジャイは、頭部に釘を四本も打たれて、その上で一二日間も批判闘争された。

七.二 性的な犯罪

 バーリン右旗バヤンウーラ公社の獣医センターのホチトは生きたままに埋められた。そして、彼の一八歳になる娘は漢人たちに輪姦された。バヤンハーン公社の女性スチンゴワは妊娠六ヶ月だったが、批判闘争されて双子を流産してしまった。また、モンゴル人女性たちに「私は牝ロバです」と自称するよう命じた。内モンゴル人民革命党員として逮捕した女性たちを全員裸にしてリンチしていた。

七.三 母国語の使用禁止

 バーリン右旗バヤンハーン公社の漢人たちは、「モンゴル語を話す者は頑固な民族分裂主義者だ」とか、「モンゴル語ではなく、中国語を話しなさい」と言って、モンゴル人が母国語で話す権利を奪っていた。

八 アラシャン地域の事例

 内モンゴル自治区最西端のアラシャン地域のモンゴル人たちは当時、一部が甘粛省に、もう一部は寧夏回族自治区に編入されていた。中国政府はモンゴル人の住むところをばらばらに分割して、その勢力を弱めようとしていた政策の結果である。

 アラシャン地域にはモンゴルの古い部族の一つ、「トルグート・モンゴル部」が住んでいた。そのため、文化大革命中はモンゴル人たちが「トルグート党」を作って、「祖国を分裂させようとしている」と断罪された。いわゆる「トルグート党も内モンゴル人民革命党の一変種」とされた。トルグート・モンゴル人は全部で約二〇〇〇人の人口だったが、約二〇〇人が殺戮の対象になった。

八.一 残虐行為

 バーリン右旗バヤンハーン公社の漢人たちは、「モンゴル語を話す者は頑固な民族分裂主義者だ」とか、「モンゴル語ではなく、中国語を話しなさい」と言って、モンゴル人が母国語で話す権利を奪っていた。

 アラシャン地域のエチナ旗は、内モンゴルの一番西に位置する。エチナ旗の旗長エレデニゲレル、旗政府弁公室の主任蔵徳明、人民裁判所の所長サインボイン、婦女連合会の会長セレンオドなどが「トルグート党のボス」とされ、逮捕された。そのうちの旗長エルデニゲレルは七年間も刑務所に閉じ込められ、一時は死刑にされる予定だった。

八.二 強制移住

 一九七三年、甘粛省政府はエチナ旗のモンゴル人たちを内地へ強制移住させた。このなかには旗長のエルデニゲレルの一家も含まれている。

九 フフホト市と包頭市の事例

九.一 残虐行為

 内モンゴル軍区の騎兵第五師団には約二〇〇名のモンゴル人将校がいたが、一九七一年になると、ほとんど全員が粛清されていた。

 内モンゴル自治区公安庁の庁長ビリクバートルが粛清され、副庁長の雲世英なども失脚させられた。自治区公安庁の政治部のテンヘは、一九六八年二月に逮捕され、長期間にわたって拷問にかけられた。彼から他のモンゴル人の情報を引き出そうとしていた。テンヘは漢人たちのその要求を断ったため、結局、一九七〇年五月二一日に殺害された。

 ハーフンガは、モンゴル族の真の自立を目指す政党、内モンゴル人民革命党の創始者の一人である。中華人民共和国成立後は内モンゴル自治区政府の副主席になっていた。彼は「内モンゴル人民革命党のボス」として、長期間にわたってリンチされ、亡くなった。同じく、内モンゴル人民革命党の指導者のテムールバガナも一九六九年一月に暴力が原因で亡くなった。生前は自治区政府の最高裁判所の所長になっていた。

 自治区民政庁の庁長ウリトも、一九四〇年代からモンゴル族の自立のために努力してきた人物だった。彼は一九六八年一二月一二日に逮捕され、一二月一九日に殺害された。

 自治区政府の副秘書長のガルブセンゲは一九六八年一二月一八日に蔵海賢、呉春舫らによって拉致され、長期間にわたってリンチされた挙句に、一九六九年一月五日に殺害された。それでも、文化大革命終了後、呉春舫はウーハイ(烏海)市の組織部長に抜擢された。モンゴル人たちはそれを不服として国家主席の華国鋒に報告したところ、まったく無視された。

 フフホト市鉄道局(鉄路局)には四百四六人のモンゴル人職員がいたが、そのうちの四百四四人が「内モンゴル人民革命党員」とされ、一三人が殺され、三百四七人が重傷を負った。五人の女性がリンチされて流産し、また、四人の子どもが殺害された。

 フフホト市鉄道局サイハンタラ区間(機務段)に勤務するソドは夫人ともに逮捕された。漢人たちはその夫人の体内にいた四ヶ月になる胎児を細い鉄線でえぐり出し、「どうせ、内モンゴル人民革命党員が生まれてくるので、早いうちに始末しておこう」と言っていた。

 フフホト市に本部を置く「内モンゴル地質調査隊」の李国道は「モンゴル人を一網打尽にしよう」、とのスローガンを打ち出して、暴力を推し進めた。調査隊にいた僅か八人のモンゴル人がすべて粛清された。そのうちの一人、宝貴賢というモンゴル人はチンギス・ハーンの直系子孫であった。漢人たちは彼をリンチしながら、「お前らチンギス・ハーンの子孫たちよ、ウラーンフの走狗たちよ、全員、あの世のチンギス・ハーンに遇わせてやる」との暴言を吐いた。また、辺福成というモンゴル人は、肋骨を七本も折られ、胸椎も骨折した。最後には睾丸も壊された。それでも、漢人たちは、「お前ら内モンゴル人民革命党員は銃殺にすべきだ。これはプロレタリアートによる独裁だ」と言いながら暴力を繰り返していた。

 フフホト近郊のトゥメト旗の朱光礼は一九五七年に北京地質学院に入学し、卒業後は内モンゴル自治区の有能な専門家になっていた。その彼も漢人たちに殺害された。そして、それだけではなく、一九六九年の旧正月の一日に、つまり、人々にとってはもっともめでたい晴れの日に、その遺体が実家に送り届けられた。漢人たちが旧正月を楽しんでいた頃に、モンゴル人たちは遺体を囲んで悲しんでいた。

 包頭市のダルハンムーミンガン旗シャルムレン・ジョー公社には約一八〇〇人のモンゴル人が生活していた。そのうち四九人が殺害され、五〇人以上が重傷を負わされた。同じダルハンムーミンガン旗のマンドラー公社はモンゴル人民共和国との国境地帯にあった。マンドラー公社では一五人が殺された。そのうちの六人は首吊り自殺に追い込まれたのである。死者のうちの四人はチベット佛教の僧侶である。殺された一五人の名はダンタル、ニマ、ハラジム、ナソンジャラガル、ソブジェ(女)、オンドル、バラカ、バダマ、ソヨルト、ナルブ、アグーン、ゲンデン、ショリクジャムソ、チャンフン、バブーである。

 一五人のうちのソヨルトはたったの三歳だった。母親のナブチマーが漢人たちにレイプされそうになって逃げたが、残された男の子ソヨルトは凍傷を負い、餓死した。この公社では更に六三戸のモンゴル人が内地への強制移住を命じられ、代わりに漢人農民が入植した。国境地帯のモンゴル人が「修正主義国家のモンゴル人民共和国」やソ連に逃亡するのを防ごうとした政策だ。また、いざ、「修正主義国家」の軍隊が攻めてきたら、モンゴル人よりも漢人たちを住まわせた方が防衛上も有利だ、との政策からの措置だった。マンドラー公社の粛清運動は漢人の郭書記の指導で推進された。文化大革命が終わった後、郭書記は共産党に守られて、武川県の水利局局長に栄転した。

 ダルハンムーミンガン旗バヤンオボー公社の第四生産大隊では、両親が逮捕されたために、残された七歳のモンゴル人の子どもが凍死してしまった実例がある。

九.二 性的犯罪

 フフホト市近郊のトクト県中灘公社ハラバイシン生産大隊の漢人王三小は一九六八年九月七日に「内モンゴル人民革命党員をえぐり出して粛清する委員会」の責任者となった。彼は一二歳になるモンゴル人(ダルハンムーミンガン旗所属)少女のロルマをレイプした。まもなく、別の一五歳になる少女オユントンガラクをレイプした。

 シャルムレン・ジョーという美しい草原がある。今やフフホト市から北へ車を飛ばして二時間くらいで訪れる有名な観光地となっている。文化大革命中に、シャルムレン・ジョー公社一八〇〇人のモンゴル人のうち、四九人が殺害され、五〇人以上の人々に重度の障害が残った。この公社に来ていた漢人女性知識青年は、生理の血を洗って、モンゴル人に飲ませた。

 ダルハンムーミンガン旗のバヤンオボー公社第三生産小隊の女性リンチンドルジは、漢人たちにつるはしで陰部を破壊されて死んだ。同じ公社の漢人楊秋遠らは、モンゴル人たちを拘留して、真裸にする。男性たちの生殖器に紐をつけて女性たちに引っ張らせながら、「北京にある金色の太陽」(北京有個金太陽)という歌をうたわされた。

「北京に金色の太陽がある、照らされたところはすべて明るくなる」という歌詞だった。「北京の金色の太陽」はもちろん、「人民の偉大な領袖」の毛澤東を指す。文化大革命が終了したと宣言された後に、楊秋遠は人民解放軍の軍人たちに守られて法の処罰から逃れた。

 ダルハンムーミンガン旗バヤンホワー公社バヤンチャガン大隊の漢人藍米栓は、モンゴル人を殺してその妻を奪い、妊娠させた。夫を失った女性も精神的に錯乱した。

 集寧市に住む女性韓淑英は陰毛を漢人たちにペンチでむしり取られた。

 包頭市固陽県磴口生産大隊では、一八六〇名のモンゴル人が「内モンゴル人民革命党員」とされ、八三名が殺害された。漢人たちは男性たちと女性たちを一緒に拘留してから、男性の顔には女性の性器の絵を描き、女性の顔には男性器を書いた。これを「男女内人党員の結合」と呼んで侮辱した。また、女性の生理の血がついた下着をモンゴル人男性の頭にかぶせた。

九.三 母国語の使用禁止

 フフホト市鉄道局集寧区間の漢人たちは口々に、「モンゴル人を機関車の操縦士に任命してはならない。列車を修正主義国家のモンゴル人民共和国へ持っていったら、どうする」と言って、就職の面で差別していた。

 フフホト市鉄道局では、モンゴル人職員同士がモンゴル語で話し合ったりすると、「あの汚い言葉を使うな」と罵倒された。また、幹部の抜擢や職員の採用などの面でも、わざと中国語のレベルを難しくして、モンゴル人を取ろうとしなかった。

 内モンゴル自治区教育庁に二七名のモンゴル人、ダウール人の幹部がいた。彼らのうち、僅か一人を残して、全員が逮捕され、拷問にかけられた。そして、「訳の分からない言葉を話してはならない」と、虐待された。

九.四 強制移住

 ダルハンムーミンガン旗では、一九七〇年に軍事管理が導入された。国境に近いところに住むモンゴル人三六〇戸に対して強制移住の命令が下された。一晩で一四四戸のモンゴル人を内地へ移住させた。捨てられた牛やヒツジなどは誰も放牧せずに放置された。後日、約四〇〇名の知識青年が入って放牧にあたった。また、武川県からの漢人たちを入れる予定があったが、実現しなかった。モンゴル人たちのなかには漢人と結婚した人もいたが、それでもモンゴル人は内地へ移住させられ、漢人のみが現地に残された。

 ダルハンムーミンガン旗マンドラー公社では、六三戸二一八人が強制移住を命じられ、代わりに他所からの漢人農民たちが彼らの故郷に定住した。その際、ナブチマーという女性はレイプされそうになって逃げたが、残された三歳の子どもソヨルトは餓死した。

後 書 き

 近代において、日本人たちが最初に出会った「蒙古」ことモンゴルは「内蒙古」=内モンゴルだった。内モンゴルの東の一部分は日本が作った満洲国に組み込まれて、大日本帝国の殖民地となっていた。大勢のモンゴル人青年たちが日本へ留学するか、あるいは満洲国に設置された大学で学んだ。モンゴル人は日本から多くの近代的な知識を吸収した。

 日本的な近代的教育を受けたモンゴル人たちはほとんど例外なく知的で、教養ある行動を取っていた。彼らはモンゴル社会の新しい知識階級を成していた。モンゴル人たちは、日本的な教育を受けた青年たちを心から愛し、また尊敬していた。

 いうまでもなく、現代中国は漢人たちが圧倒的多数を占める国家だ。他の弱小民族の運命はすべて彼らの掌中にある。しかし、残念ながら、漢人共産主義者の多くは教育を受けておらず、無学無知だった。そのため、毛澤東を頂点とする漢人共産主義者は知識人を嫌った。何回も知識人たちを粛清し、国民を無学のままにしておいて統治しようとしてきた。

 モンゴル人が古くから住んできた土地の一部、すなわち「内モンゴル」と俗に呼ばれる地域は大国の無責任な政策によって、独立が頓挫してしまった。内モンゴルは中国の領土に組み込まれたが、知的で教養あるモンゴル人の存在を中国共産党員たちは喜ばなかった。というのも、知的なモンゴル人たちは日本の殖民地支配と結びついているからだ。

 しかし、知的な彼らを漢人共産主義者たちも認めざるを得ず、「日本刀をぶら下げていた紳士」( 洋刀的紳士)と、半ば皮肉を込めて呼んでいた。皮肉の成分を除けば、知的で、近代的な良好な教育を受けたモンゴル人たちは、匪賊上がりで、無学な漢人共産主義者たちとは全然異なる社会運営を目指していた。

 本書は直接的にはモンゴル人ジェノサイドの実態について報告しているが、そのようなジェノサイドにされた間接的な一因に、近代日本の投影があるのも事実であろう。日本の方々にはぜひ、その部分を理解していただきたい。