重要歴史事件


金丹道の乱

金丹道は白蓮教の分枝で、中国社会に古くから残る秘密結社の一つである。この一派にまとめられた漢人農民は1891年冬に清朝に対して反乱を起こし、首領の楊閲春と李国珍らは「掃北武聖人」、つまり、「北のモンゴル人を一掃する武勇聖人」と自称していた。楊閲春らは「殺人奪地」(モンゴル人を殺してその土地を奪おう)、「掃胡滅清殺韃子」(モンゴル人と満州人を殺して清朝を滅ぼす)、という過激なスローガンを掲げて、内モンゴル東部のジョソト盟やジョーウダ盟に闖入して各地で大量虐殺を働いた。殺害されたモンゴル人の数は数万に達するとの説がある。また、他にも数万人の故郷を失ったモンゴル人たちはさらに北へと移っていった。金丹道による大虐殺は漢族社会における暴力嗜好の傾向を一層助長したと見られている。

内モンゴル人民革命党

 内モンゴルに住むモンゴル族の民族主義政党。1917年の「ロシア革命」の影響もあって、モンゴル高原でも1921年に人民による革命運動が起こった。同じ時期に漢人の孫文もコミンテルンの支持を得ようとして、「国内の弱小民族にも自決権を与える」との政策をとるように変わった。こうしたなか、内モンゴル東部のハラチン部出身のモンゴル人バインタイらが内モンゴル各部各地域か北京「蒙蔵専科学校」に来ていた生徒ら優秀な青年たちを集めて、コミンテルンとモンゴル人民共和国の支持の下で、1925年10月12日に長城の麓にある町、張家口で「内モンゴル人民革命党」第一回党大会を開いた。党の中央委員には内モンゴル東部出身の優秀な青年たちが選ばれた。内モンゴル人民革命党は反帝国主義、反封建主義と反大漢族主義をその綱領に書き込んだ。その後、日本の満州進出で同党の幹部たちは満州国の役人に変身して潜伏した。1945年8月に日本の敗退を受けて復活し、内モンゴルとモンゴル人民共和国との統一合併を目指す活動を積極的に展開したが、中国共産党の圧力と陰謀で失敗し、1946年以降に活動停止となる。

東モンゴル人民自治政府

 日本が満州国から撤退した後の1946年1月に旧興安南省のゲゲーンスメ寺で内モンゴル人民革命党と各地の人民代表たちによって組織されたモンゴル人の自治政府。同政府はボヤンマンダホを出席とし、ハーフンガ秘書長を務めた。中華民国内での高度の自治を目標に、「中国の主権に抵触しない限りで、外国と通商条約を結ぶ」とし、独自の「東モンゴル人民自治軍」を結成した。しかし、1946年4月三日に開かれた「四・三会議」の結果、中国共産党の圧力で解散させられた。

内モンゴル騎馬兵師団

日本統制時代に育った「日本刀をぶら下げたモンゴル人」将校を中心に形成されたモンゴル人独自の軍隊。騎兵師団五個があったとされるが、実際は長く四個師団しか存在しなかった。各師団はいずれも最初は内モンゴル人民革命党の指導の下で、「東モンゴル人民自治軍」称した。その由来は以下の通りである。騎兵第一師団は、1946年1月に「東モンゴル人民自治政府」あ管轄する興安盟警察部隊をベースにして形成されたものである。メデレト師団長で、ドグルジャブが参謀長だった。騎兵第二師団は1945年秋にジェリム盟のホルチン・モンゴル人を中心に組織された。師団長にウルジト、参謀長官にバヤンボラクが任命された。ジョソト盟のモンゴル人たちは1946年1月に騎兵第三師団を作った。内モンゴル人民革命党の創始者バインタイ(白雲梯)の弟、白雲航が師団長だった。白雲航は独立を目指す人物だったことから、中国共産党に粛清された。騎兵第四師団はジョーオダ盟のモンゴル人たちを中心に1945年秋に編成された。チンジョリクトが師団長を務めた。騎兵第五師団はフルンボイルやチチハル地域のモンゴル人がほとんどで、1945年末に武装された。師団長はエネリルトで、参謀長官は卾秀峰だった。1946年4月の「四・三会議」経て軍名を「内モンゴル人民自衛軍」に変える。ウラーンフーが司令官に、アスガンが副司令官のポストにつく。つづいて1948年1月1日にはさらに「内モンゴル人民解放軍」に名を改め、日本と繋がりのあるエリートたちの大半が粛清され、漢人兵士が増える。1949年5月1日には「中国人民解放軍」と名乗り、五個の師団から編成される。

内モンゴル人民共和国臨時政府

 ソ連、モンゴル人民共和国軍が南下し、日本軍の敗退を受けて、内モンゴル中央部のシリーンゴル盟スニト右旗にある徳王の政府所在地にて1945年9月9日に成立したモンゴル人独自の政府。日本留学経験者からなる「モンゴル青年党」や徳王の「蒙疆政権」の幹部たちが中心となって、長老で、蒙疆政権最高法院院長のボインダライを臨時共和国政府主席に選出した。同政府は以下のような宣言書を公布した。「中国は、我々内モンゴルを北モンゴルより無礼に略奪・分断し、その属下に入れたことから、我々全モンゴル民族の発展なき状態を決定づけた」。臨時共和国の存在を脅威と見た中国共産党は雲澤(ウラーンフー)派遣して圧力をかけ、モンゴル人青年たちに改組をすすめる。激しい応酬の末に雲澤が臨時共和国の主席に選ばれた後は、中共軍が支配するシリーンゴル南部の張北に臨時共和国政府を移転させる。雲澤は当時、中国共産党もソ連型の自治共和国を域内の諸民族に与えると信じて動き、臨時共和国主席になったことを喜んでいた。ところが、中国共産党は自治共和国ではなく、あくまでも「区域自治」しかモンゴル人に授与しないと分かると、雲澤も臨時共和国の存在を強調しなくなり、自滅へと導く。後に、文化大革命が発動されると、雲澤が臨時共和国主席に就任した事実が「民族分裂主義的な活動」を行った「罪証」となる。

延安民族学院

中国共産党が陝西省北部の町、延安を割拠地にしていた1941年9月18日に設置した少数民族を対象とした大学。延安の北隣に住むモンゴル人と割拠地の安全を脅かす寧夏の強力なムスリム社会を懐柔するための政策機関でもあった。少数民族との付き合い方を探り、独自の対少数民族政策をすすめるのに有用な人材を育てる目的を有していた。学院長は陝西省北部出身の漢人高崗で、社会主義時代に内モンゴル自治区の最高指導者となるウラーンフー(雲澤)は学院の教育長で、東北地域遼寧省出身の漢人王鐸は副教育長で、実権を握っていたのは、同学院付属の「民族問題研究部」部長で、江西省出身の劉春だった。日中戦争が最終段階に近づいた1945年2月に、延安民族学院は延安を離れて、オルドス西部のボルバルガスンこと城川に移り、ここから延安民族学院城川分院がスタートする。延安やボルバルガスンで学んだモンゴル人たちはトゥメトとオルドス出身が多く、彼らは文化大革命中に例外なく「ウラーンフーの反党反国集団」のメンバとして粛清された。

内モンゴル自治運動連合会

中国共産党が内モンゴル西部出身のウラーンフーを担ぎ出して、1945年11月に張家口で作った翼賛組織。同組織に加わったのはモンゴル語がほとんど話せないトゥメト出身者が大半で、内モンゴル各地から選ばれた代表は皆無だった。それでも、共産党は雲澤らを信用せずに軍隊は一切与えずに、漢人の劉春らを派遣して監視体制をしていた。その後、雲澤らは中共の軍事力を背景に謀略活動を繰り広げ、ハーフンガを指導者とする東モンゴル人民自治政府とその指揮下の東モンゴル人民自治軍を乗っ取り、掌握した。同聯合会1947年5月に内モンゴル自治政府成立まで自治運動の一翼を担った。

四・三会議

民族の自決を目指す東モンゴル人民自治政府と内モンゴル人民革命党を脅威と判断した中国共産党がその解体に着手し、成功した会議。1946年4月3日に熱河省の承徳で開かれたことから、「承徳会議」ともいう。共産党側からは雲澤と劉春らが、東モンゴル人民自治政府側からはボインマンダホとハーフンガがそれぞれ出席した。中共側は軍事力を動員して圧力をかけると同時に共産主義思想に憧れるモンゴル人青年らを大量に寝返らせる手法を取ることで、東モンゴル人民自治政府の解散と、内モンゴル人民革命党の活動停止が強引に「決議案」書き込まれた。これ以降、雲澤ら共産党員主導の自治運動聯合会がモンゴル族の宿願である自決と高度の自治路線を逐次放棄していく。

反右派運動

毛沢東が推進した知識人を粛清する運動。1956年4月、「知識人の問題を解決しよう」として、「百花斉放、百家争鳴」政策を中国は打ち出した。知識人たちは単純な愛国心から先を争うように様々な意見や改善策を表した。「中国は二院制を取るべきだ」とか、「中国は党の天下であって、人民の天下ではない」とか、「毛沢東は喜怒哀楽が不安定で、いつ何か起こるか分からない」のような、厳しい意見があいついでだされた。こうした中、同年秋に「ハンガリー事件」が起こり、共産主義体制に対する東欧市民の不満が爆発し、ソ連軍が介入し容赦なく鎮圧された。1957年5月15日に毛沢東は「状況は変わりつつある」という一文を書き上げ、一党独裁や社会主義に批判的な知識人たちを「反動的な右派」と決め付けた。「ゴロツキの陰謀ではないか」と抗議されたとき、毛澤東はユーモアを交え、「陰謀ではなくして、陽謀だ」と応戦した。「右派を蛇のように穴からおびき出して、一網打尽にする」運動のときに、「反動分子」とされた知識人の数は120万人に上る。「陽謀作戦」ともいう。

四清運動

「政治と経済、組織と思想の四つを清らかにする」という共産党政府が呼びかけた政治運動で、国家主席劉少奇の主導で推進された。劉少奇は1963年2月11日から28日にかけて開かれた「共産党中央工作会議」において、「階級間の闘争」を重要視するよう呼びかけ、甘粛省白銀有色金属会社と河北省の桃園地域、天津の小站地域などで、四清運動の実験を行い、それらの地域で得た経験を全国に広げた。その内の桃園では劉少奇の夫人王光美が先頭に立っていた。王光美は桃園で「清くない」とされたものを拷問にかけたり、銃をつきつけて脅迫したりして暴力的な手法で運動を推進した。のちに劉少奇は毛沢東によって乱暴な手段で追放され、河南省の開封市で寂しく死んでいった結末に人々の同情を集めているが、残虐な政治運動を積極的に推進していた点では毛澤東などと同じである。

呼三司

1966年10月29日に成立された、内モンゴル自治区最大の紅衛兵造反派組織「呼和浩特大学中等専門学校紅衛兵革命造反第三司令部」の略。同組織が成立する前にはすでに穏やかな造反派組織の呼一司(呼和浩特市地区毛沢東主義紅衛兵臨時総部)と、主として高級幹部の子弟からなる呼二司(毛沢東思想紅衛兵第二司令部)が存在していたが、呼三司が首都北京を拠点とする「首三司」と同じ政治的な立場を取る。呼三司は師範学院の「東方紅戦闘縦隊」と「九一五」、林学院の「紅旗」、工学院の「東方紅串連大軍」、医学院の「東方紅造反隊」、農牧学院の「毛沢東思想紅衛兵」、内モンゴル郵電学校の「毛沢東主義紅衛兵」、内モンゴル芸術学校の「星火」などから構成されていた。鉄道関係者からなる造反派の「火車頭」と軍事工場の「河西公司八一八」などと連携して積極的に文化大革命を推進した。フフホト市は地理的にも北京に近いことから、中国のほかの地域の紅衛兵よりも「進歩的」と見られていた。同派師範学院の学生韓桐が1967年2月5日に「保守派」を支持する人民解放軍に射殺された後は北京に赴いて周恩来らと複数回にわたって交渉するなど、中国全土の造反派の動向を左右した。高樹華、郝広徳ら主要な指導者を演じた。

内モンゴル自治区革命委員会

革命委員会とは、旧来の「ブルジョア路線を歩む実権派」から「奪権」して作られた「新生紅色政権」を指す文化大革命中の独特な政治的な産物である。1967年1月に上海で発生した「奪権」革命と黒竜江省で真っ先に成立した「紅色政権」続いて全国規模で相次いで誕生した組織である。内モンゴル自治区では1967年6月18日にまず「革命委員会準備委員会」が立ち上がられ、冬の11月1日に正式に「紅色の革命委員会」が登場する。毛澤東と中国共産党中央によって北京から派遣された漢人の滕海清将軍が主任に、「革命幹部」の高錦明とモンゴル人傀儡の呉濤、それに造反派の霍道余が副主任に任命された。実権をすべて漢人たちが掌握し、モンゴル人はごく少数しかいなかった。革命委員会はその後モンゴル人大量虐殺を主導し、1979年に解散するが、モンゴル人を政府中枢から排除して漢人が支配する前例と体制を作った局面は今日までに挽回できていない。換言すれば、革命委員会の成立で、漢人が内モンゴル自治区を統治するシステムが各地で確立された意義は大きい。

 

二〇六事件

中国共産党が自作自演した、モンゴル人大量粛清を実現させるための陰謀の一つ。1963年2月6日、内モンゴル自治区南部ウラーンチャブ盟の首府集寧市の郵便局でモンゴル人民国へ出された手紙が検閲にひっかかったことが契機だとする。封筒にはキリル文字で宛先のウラーンバートル市製靴廠が書かれ、中身は伝統的なウイグル文字モンゴル語だったという。約一年半前の1961年11月に集寧市内で「モンゴル人民革命党大会が開かれ、内外モンゴルの統一を求める決議が採択された」ことと、「入植者漢族を非難した」内容だったとされている。手紙が発見された日にちから、「二○六事件」と名づけられ、自治区内で大規模な捜査網がしかれ、一〇〇人以上の東モンゴル出身の高官が逮捕された。事件は一時的に封印とされていたが、文化大革命中には党中央からの指示で再審査が始まり、モンゴル人大量虐殺に繋がった。

統一党事件

1964年からの「四清運動」中に内モンゴル自治区で摘発された「民族分裂主義者政党」に対する粛清運動。ことの発端は「四清前線」から得られた強制的な自白が緊急報告として自治区政府に届き、「民族分裂主義者集団」の「統一党」という架空の組織が摘発されたことにあった。知識人のエルデニビリクと作曲家のトゥンプ(通福)らがそのボスだとされる。逮捕されたモンゴル族知識人は数百人に上る。

満洲屯事件

1948年2月に興安盟ホルチン右翼前旗の満洲屯で起こった、中国共産党主導の暴力的な土地改革運動に対するモンゴル人の武装蜂起。満洲屯のモンゴル人の遠い祖先は満洲人だったという伝承が残る地域。武装蜂起は[土地改革工作団」団長のジャラガルの率いる軍隊によって鎮圧されたが、一部の蜂起者たちはモンゴル人民共和国へ亡命。満洲屯事件をきっかけに、「搾取階級の財産を分けず、搾取階級を暴力的に闘争せず、牧畜社会で階級的な区分を行わず、牧畜民と牧主双方の利益を確保する」という「三不両利政策」が次第に導入されるようになる。

知識青年(下放青年)

毛沢東の「造反有理」の呼びかけに応じて立ち上がり、「資本主義の路線を歩む実権派」と称される政敵の打倒に役割を果たした都市部の青少年たち。青少年はパリ・コミューン型の革命を理想にしていた側面から毛沢東らに見放されて、農山村へ下放された。「知識を有する青年」とは名ばかりで、ほとんど高校以下の教育しか受けていなかった。その総数は1,700万人に達するとされ、文化大革命発動で破綻した都市部の経済的な圧力を軽減するための対策とも解釈されている。内モンゴル自治区には北京市と南京市、それに天津市からの青少年が流された。その内、北京市と天津市からの青少年らの中にはモンゴル人大量虐殺に熱心に関わった人もいた。

                                    『墓標なき草原』