「少数民族虐殺は正しかった」


少数民族虐殺は正しかった」

―中国共産党唐山学習班班員の日記―

       一 日記資料の背景

「偉大なプロレタリアート文化大革命」中の1968年4月から1970年春にかけて、内モンゴル自治区では、およそ27,900人もの「内モンゴル人民革命党(略して「内人党」)員」とされる人々が残虐な手法で殺害された。逮捕、拘留された人数は346,000から750,000人に達する(郝维民 1991: 313; Atwood 2004: 402)。犠牲者はごく僅かな漢人を除けば、ほとんどがモンゴル人である。したがって、モンゴル人たちや多くの研究者たちは、この「内モンゴル人民革命党員粛清事件」を「モンゴル人のみを対象とした少数民族大量殺戮」、つまりジェノサイドとして理解している。モンゴル人ジェノサイドがおこなわれた後、内モンゴル自治区は1969年12月19日に「軍事管理下」に置かれた。北京軍区内蒙古前線指揮部が自治区の最高権力機関になった。軍事管理と同時に、内モンゴル自治区の幹部たちはすべて自治区以外で招集された各種の学習班に編入されて、政治学習を命じられた。その際、自治区政府直属機関の幹部たちは河北省唐山市に、フフホト市の幹部たちは張家口市に、各盟や旗の幹部たちは山西省の陽高県に召集された。名目上は学習班と称しているが、実際は「強制収容所内における軍事訓練」だった、と経験者たちは振り返っている。中国共産党の現代史、あるいは同党が絡んだ少数民族地域での現代史は、資料開示が進んでいないことから、謎に包まれた状態がつづいている。いわゆる「唐山毛澤東思想学習班」もその実態は明らかにされていない。私は、文化大革命中に発動された「モンゴル人ジェノサイド」の研究を進めているなかで、唐山学習班に参加させられた複数の人たちにインタビューすることができた。そして、ある偶然の機会で、フフホト市の古本屋で唐山学習班に加わった人物の日記を手に入れることかできた。本研究は、その日記の公開を目的としている。私が入手した日記は、1966年8月に湖南省長沙市湘中印刷社が作った「雷鋒日記」に書かれたものである。大きさは12.8㎝×17.8㎝で、紺色のビニールのカバーが付いている。扉ページに「1970年元月10日赴唐山学習」とある。次のページには「1969年4月26日 張欣心去大学校購」とあり、この日記はもともと張欣心という人物が購入したものである、と推定できよう。日記の書き手は張欣心ではない。元月17日の日記は、書き手が学習班の一員として唐山に着いた一週間後に、宿舎や所属の「連隊」などが正式に決まったことを簡素に記す内容となっている。そのなかに「唐山市私書箱302第二連隊第四小隊第19班張長炳(唐山市302信箱二連四排19班張長炳)」とあることから、張長炳が日記の書き手であろう、と推定できよう。張欣心は張長炳の子どもであろう。日記を読んだ限りでは、張長炳がどんな人物だったかは、分からない。

  二 造反派が回想する唐山学習班

内モンゴルの著名な造反派紅衛兵組織、「呼和浩特市大中専院校紅衛兵革命造反司令部(呼三司)」の指導者だった高樹華も唐山学習班に参加した経験をもつ。高樹華は次のように回想している。唐山にはおよそ8,000人もの自治区直属機関の幹部たちが集められていた。学習班は軍隊式に組織され、早朝の点呼から始まり、食事や訓練、それに政治学習などすべて隊列を組み、班ごとに動いていた。「お互いに密かに意見交換をしてはいけない、電話をかけてはいけない、手紙を書いてはいけない、見舞いの者を呼んではいけない、町に行ってはいけない」という五つの禁止令が敷かれていた。毎日、自治区の最高指導者だったウラーンフを批判する論文を読まされた。更にはお互いの問題を暴露したり、批判したりさせられた(高樹華 程鉄軍 2007: 409-414)。

 そうしたなか、1970年4月16日の夜に、学習班の全員が北京に移動させられて、「中央領導」たちの訓示を受けた。その時の周恩来のスピーチが雷のように班員たちを震撼させた。

 昨年4月に毛主席が戦争に備えよう、と呼びかけてから1年以上が経った。……内モンゴルは国境地帯であるのに、ちゃんと仕事をしていない。二つの拡大化をしてしまった。つまり、内モンゴル人民革命党員たちを粛清するという運動を拡大してしまった。その後、粛清運動の行き過ぎを是正する際に、今度は逆の拡大化をしてしまった。だから、解放軍を派遣した。周恩来はここで軍事管理を導入した理由について述べている。別の共産党の首長は次のように指示した。

 内モンゴル人民革命党は存在しているか否かということだが、答えはイエスだ。古い内人党もいれば、新しい内人党もいる。内人党は外モンゴルとつながっており、反革命的な組織だ。内人党に反対する目的は正しい。ただ、方法だけが間違った。傷つけた人数が多い。拡大化してしまった。すでに冒頭で触れたように、何万人ものモンゴル人のエリートたちを残忍きわまりない手段で殺害した行為について、ただ「拡大化してしまった」との一語で片付けている。高樹華らは周恩来の訓示を次のように分析している。「大量虐殺事件に行き過ぎた点があった、との表現は意図的に殺戮を風化させようとしている。虐殺を是正しようとした政策にも行き過ぎがある、との言い方の本音は、是正したくないとのことである」と見ている(高樹華 程鉄軍 2007: 415-416)。

  中国共産党の高官たちはジェノサイド行為の目的は正しかった、とも評価している。中共の「偉大な指導者」で、「人民の良い総理」とされる周恩来らの講話に、同党の対少数民族政策の本質がみごとに現れている。それは、文化大革命中の少数民族虐殺は、正しかった、ということである。

三 学習班経験者の回想

内モンゴル大学党委員会の副書記を務めたことのあるオーノス(1929-)は、文化大革命中に「革命を裏切った者」とされ、長期間にわたって、さまざまな暴力を経験した(楊 2005: 170-192)。彼も唐山学習班に参加させられたことがある。彼は2006年4月24日に、私に次のように語った。

  私は、唐山学習班第三大隊に編入された。第三大隊には文化関係、農業関係の元高官たちが多く、唐山の趙各庄というところに配置されていた。唐山学習班では、殴る、蹴るなどの直接的な暴力はなかったが、一番辛かったのは、夜に眠らせないことだった。共産党に対する態度が悪く、自分の「罪状」を認めていないと見られると、夜に「難関を突破させる」と称して徹夜で吊るし上げられる。中国語で「過関」という。毎日、「党に心を引き渡す」(向党交心)、「自らの罪状を認める」(交代問題)、「ウラーンフの罪状を暴露する」(掲発烏蘭夫)の繰り返しだった。一番辛かったのは夜に、たった二時間しか眠らせないことだった。実際、これも暴力だろう。……そして、周恩来の講話の衝撃も大きかった。内人

党の粛清は拡大化してしまったし、それを是正する運動も拡大化してしまった、と彼は言った。私はこの耳で聞いたのだ。なんと無責任な言い方だろう。何万人ものモンゴル人が殺されたのに。……毛澤東思想学習班といっているが、実態は強制収容所だ。

  オーノスの見解はモンゴル人たちの気持ちを素直に代弁していると言えよう。

  内モンゴル師範大学教授のナランバト(67歳)も唐山学習班に収容された。

  ナランバト教授は2008年1月のある日、私に次のように語った。

  唐山学習班は政府が内モンゴルで「権力の空白」を作るために組織されたものである。内モンゴルの幹部たちを全員、外地に移動させて、その間に混乱収拾と称して解放軍を進めて軍事管理を実施した。内モンゴルの幹部たちが残っていたら、軍事管理がうまくいかないかもしれない、と見て「権力の空白」を作ったにすぎない。

  中国共産党の政治闘争の手法は残酷で、巧妙である。何万人ものモンゴル人たちを殺害した後には、残った幹部たちに「殺害は正しかった」と繰り返し叩き込む。いわばジェノサイドを正当化するための洗脳である。私が今回、公開することになった日記は、どのように洗脳されていたかを如実に示している。

四 日記資料の重要性

  日記は語る。唐山学習班の正式名称は「毛澤東思想学習班」だった。それは、「毛澤東主席の直接の指示で、内モンゴルからの幹部たちのために作った共産党学校(党校)の性質をもつ」と位置づけられている。つまり、学習班は毛澤東の勅令で組織されたものであることが明記されている。班員は7,200人に達し、そのうち共産党員は3,000人あまりで、モンゴル人は1,000人に達していた。女性も約900人いたことが分かる。

  1970年2月25日と3月2日に学習班の班員たちは中共の高官たちによる会見を受けていた。それぞれ政府系の京西賓館と人民大会堂でおこなわれた。周恩来をはじめ、情報機関のトップである康生などの顔ぶれが見られた。会見で繰り返し強調されている点は、二つある。

 第一、  内モンゴルは中国の北部国境地帯にあり、ソ連社会主義帝国と対峙する最前線にあたる。そのため、モンゴル人たちを粛清することは必要不可欠だった。

 第二、毛主席の「戦争に備えよう」、との最高指示を忘れてはならないこと(圖1参照)。そのためには、粛清による恨みを忘れようと説得している。首長たちの講話は長かったが、要約すると、以上の2点に帰納できる。換言すれば、以上のような2点から、内人党の粛清事件、つまりモンゴル人ジェノサイドが断行されたということである。北部国境における防衛線を確固たるものにするためには、戦争になったらどちら側につくか分からないようなモンゴル人たちを大量に粛清する必要があった、という点を学習班の班員たちに理解させたかった。

  要するに、モンゴル人ジェノサイドは中国という国家のために絶対に必要だったことを幹部たちに叩き込もうとしたのである。そうした共産党の努力ぶりが、どのような文件を学習させているのか、どんな講話を聞かされているのか、という細かい工作が日記から抽出できよう。謎に包まれた唐山学習班の実態を示す第一級の資料である。

  1971年6月、唐山学習班は目的が達成されたと判断されて、解散した。ナランバト教授によると、班員たちは五つのタイプに分類され、それぞれ異なる運命をたどった。

一等幹部:元の政府機関に帰って仕事を再開する。

二等幹部:仕事は与えられるが、配置換えとなる。

三等幹部:「五・七幹部学校」に下放され、引き続き学習する必要がある。

四等幹部:農村に下方され、労働改造する。

五等幹部:敵人であり、唐山に残って再審査する。

かくして、「モンゴル人大量殺害は正しかった」と洗脳された内モンゴルの幹部たちは、さまざまな形で自治区に戻ってきたのである。