殉難者の家族の証言


殉難者の家族の証言

    元内モンゴル工科大学動力科学の大学院生で、後にアメリカ・ハワイ州に移り住んで風力の研究に従事している騰和先生の話。

    私の母(名前は淑紫。モンゴル族)は、もとシリンゴル盟党委員会事務局の主任でした。1964年、私の父(名前はナソンバヤル、モンゴル族)が誣告によって逮捕されて投獄されたとき、母は左遷されてシリンゴル盟病院の党委員会書記となりました。1968年9月のある夜、母は会議のために出かけることになりましたが、出かけに私にこう言いました。「騰和や、覚えておきなさい、お前の母は『内人党』なんかじゃありませんよ」

 私は分かったよう分からないような気がしたまま頷いて、「早く帰って来てね」と言いました。当時、母は毎晩会議に出かけており、母が夜出かけることにすっかり慣れていました。その夜、熟睡していた私は突然目を覚まされました。見ると、部屋の中はめちゃくちゃに散らかっており、ずいぶん多くの人がいました。ドアは叩き壊され、天井は引き裂かれ、何人かがシャベルやつるはしで床を掘り起こしているのです。私はごろりと寝返りを打って跳ね起きると母を探しましたが、母はいませんでした。私はそこにいる男たちに、家で何をしているのかと尋ねると、「お前の母親は『内人党』だ。この部屋に無線通信機が隠されているんだ」と言いました。当時、私の二人の姉は人民公社の生産隊に入隊していましたが、梱包されたまままだ運び出されていない下の姉の荷物があり、男たちがそれを開けて調べるというので、私はだめだと言いました。すると一人の大男に平手打ちを食わされ、私は床に倒れました。私の家にはフィリップというブランドの自電車があったのですが、文化大革命が始まるとすぐ、私と姉はそのブランド名をナイフでこすり落としました。でもその分にはまだうっすらと「MADE IN ENGLAND」の文字が残っていました。男たちは、これこそ国民党のしるしだと言いました。そのほかにも、母が現物給与制のときにお金を貯めて買ったスイス製の腕時計があり、それも反党叛国の証拠とされてしまったのです。

 男たちが帰った後、私はまだぐっすりと寝ていた弟と妹を起こし、「お母さんが捕まったというのに寝ているなんて!」とこっぴどく叱りました。当時、私は13歳、妹は9歳で小学三年生、弟は7歳で学校に上がったばかりでした。この時から私は弟と妹の保護者となり、一家の主となりました。たった一晩のうちに私は一人前の男となったのです。

 当時、私たち一家は病院の宿舎に住んでいましたが、その宿舎から遠くないところに新築の家屋が四棟あって、「内人党」はそこに閉じ込められていました。逃げださないように、建物の周囲は鉄条網が張られていました。毎晩、取り調べや拷問を加える音、悲痛な叫び声が聞こえてきて、身の毛がよだちました。弟や妹はびっくりして泣きじゃくり、お母さん、お母さんと大声で叫びました。私は心を鬼にして二人の頭を掛布団ですっぱり覆い、いろいろな話を聞かせながらあやして寝付くようにさせ、そうしてから掛布団を頭からはずして窒息しないようにしました。

 母が逮捕されてから三日目、看守の一人から、母がすでに食べ物がのどを通らない状態になっている、何か食べる物を届けるように、と告げられました。食事を届けるには、まず特別査問事務室に行って検査を受けなければなりません。特別査問グループのメンバーは全員が病院の医者で、それが机の向こう側に座り、取調べの手先となっている病院のボイラー係り・運転手・炊事係が医者たちの両側に立っていました。ついこの間までは母の姿を見れば口を揃えてうやうやしく「于書記」と言っていたその人たちの誰も彼もが、今では鬼のようになって、私のことを「小内人党」、「小スパイ」と罵るのです。私が持っていったマントーも卵も、鉄串で突かれてぼろぼろになってしまいました。母は七晩も拷問を受け、死ぬ寸前でやっと取り調べが止みました。シリンゴル盟等委員会の部長たちは拷問に耐えられず、次から次へとでたらめな供述をし、私の母のことをシリンゴル盟の「内人党」委員会書記だと言ったのです。でも母だけは人を巻き添えにするようなでたらめを言いませんでした。あとになって母は私に言いました。「でたらめを言って誰かを巻き添えにすれば、その人がひどい目に遭わされる。罪をかぶるのは私一人でたくさんだと思ったのよ」

 母に会わせてくれと頼んでみましたが、特別査問グループは許してくれませんでした。その理由は、母は私たちが元気にしているのを見ればいよいよ自供をしなくなる、というものでした。特別査問グループが私の母を逮捕したのも、シリンゴル盟等委員会の部長たちが母のことを誣告したのも、私の両親が早期に革命に参加した古株だったからだ、ということは後になってから知ったことです。母が共産党に入党した時の紹介人はウラーンフーの妹の雲清、また父の入党のさいの紹介人は内モンゴル自治区副主席の孔飛でした。私の両親は六十絵年代の初めにシリンゴル盟に転勤してきたのですが、それはウラーンフーが反党叛国活動のために意図的に行った手はずだと思われたのです。

 特別査問グループは母の口から証言を引き出せないとと見ると、私たちの唯一の親戚である母方の叔母を標的に選びました。叔母は食料局のタイピストで、逮捕されてからも拷問などを受けませんでしたが、私の両親が拷問されるのを見せられると、それに絶えられず、精神に異常を来しました。

 親しい人が誰も周りにいないので、私が弟や妹の面倒を見るしかありませんでした。幸いなことに母の賃金はまだ支給されていました。でも米穀店では私たちに米も小麦粉も売ってくれず、手に入るのはとうもろこしの粉だけでした。私たちは来る日来る日もそのとうもろこしの粉を練って焼いたものを食べていました。家ではひっきりなしに家宅捜査がおこなわれ、街に出れば子供たちに「内人党の犬っころ」と罵られ、しょっちゅう煉瓦や瓦のかけらを投げつけられました。病院で受付をやっている近所の人が私たちを哀れに思い、犬をくれました。それはずばぬけた優良品種于の犬でした。私たちはその犬に「ニセフ」(モンゴル語で飛ぶの意)という名前をつけました。ニセフは番犬として大いに役立ってくれました。

 学校は再開されたと思ったら革命が起こり、そんなわけで長いこと新入生を受け入れませんでしたが、それでも生徒で溢れ返っていました。二年もの間学校に来ても勉強することは出来ずにぶらぶらしていた或る労働者の息子が「問題を起こした家の人間は出て行ってくれ!」と大声で叫びながら私を校門から追い出しました。私は考えました、学校に行かずに屑拾いをしようと。母の賃金が支給されなくなっても、屑拾いをすれば弟や妹を養っていけるではないかと。私たちは猫とうさぎを飼い始めましたが、外ではいじめられるので、家の中で飼いました。ウサギは繁殖力が特別強く、ほどなくして二十匹以上になりました。一方猫は、自分が産んだ子供が死んでしましましたが、すると子ウサギを抱いて飼育しようとするのです。その光景を見たとたん、私は隠れて泣いていました。私が涙を流したのは、母が捕まって以来初めてでした。動物同士でさえ愛情があり暖かみがあるのに、人間の世界はどうしてこんなに残忍非情でしょうか。

 1969年の春、山の斜面にニラの葉が出てきた頃、母の監禁場所が倉庫に移されたと聞きました。それで毎日オンボロ自電車に乗ってその倉庫の付近まで言ってはぶらぶら歩き、ニラを摘むふりしながら、母を一目でも見られないものかと思っていました。そうしたら、本当に母の姿が見えたことが二度ありました。用便のため外に出されたのです。母を見ると、こらえきれないほど胸が締め付けられました。母の顔は青ざめ、白髪一本なかった黒髪がたった数か月でごま塩になり、顔が腫れていかにも老けた様子になって、びっこを引き引き歩いているのです。

 私はいつも、どうしてあんな父親を持ってしまったのだろうと怨みに思っていましたが、1982年に父がなくなって弔辞を書くときに、いろいろな人にあったりいろいろな資料を見たりして、その時初めて父が数多くの無実の罪を着せられ、またどれほど非人道的な拷問に耐えていたのかが分かりました。

 父は十九歳で革命に参加し、1947年にある右派に陥られ、反革命分子ということで投獄されました。1968年には今度は「内人党」だと言われ、あらゆる拷問を受けました。その拷問の一つに針金で目を締め付けるというものがあり、それで目玉が飛び出ていました。父は元来が頑健な身体の持ち主でしたが、釈放されたときは骨と皮ばかりに痩せこけ、体中が病に侵されていました。1982年、シリンゴル盟科学技術委員会主任をしていた時に亡くなったのですが、まだ五十六歳という若さでした。死に装束に着替えさせるとき、私は初めて父の身体にどれほどの傷跡があるのかを知りました。肩・背中・胸・脚に、打たれた跡・焼かれた跡・針を刺された跡・切られた跡が至る所についていて、目を覆わんばかりでした。母から聞いたのですが、父は両手を針で木の板に打ち付けられたまま鞭や棍棒で叩かれたり火で焼かれていたりしたこともあるそうで、その手には片方だけで四つも五つもの凄まじい傷跡がついていました。

 家の事を思い出すたびに、どういうわけか、祥林嫂(魯迅の第二の創作集『彷徨』所収の小説「祝福」の登場人物。二人の夫に死なれ、息子も失う。死後の魂の存在と地獄の有無を問いながら生き倒れて死ぬ) が竹竿の杖をつき、おんぼろの籠を手に揚げて、雪が盛んに降る夜に一人ぼっちで歩いてゆく姿が目に浮かび、とろんとしてこの上ない悲しみを湛えたその眼差しが脳裏に浮かびます。私が読んだ文学作品は多くはなく、それにたくさん読みたくないと思いません。軽い読み物やユーモア小説を読んで、楽しむ気になれません、悲しみや苦しみを描いたものは読むに耐えられないからです。昔のことは大きな石のように心にのしかかっていて、昔を思い出すといつも、果てしないトンネルを、真っ暗闇で骨にしみるような寒さの中を、自分と弟と妹だけが歩いていた、そんな思いがしてくるのです。

       宋永毅 編 松田州二 訳 ≪毛沢東の文革大虐殺≫