モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料 (5)


静岡大学の楊海英氏が編集しているシリーズ「内モンゴル自治区の文化大革命」の第五巻がこのほど風響社から出版されました。第五巻は「被害者報告書」からなります。ここで、第五巻内の解説文の一部を抜粋して紹介します。

内モンゴル自治区の文化大革命 5

モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料(5)

―被害者報告書(1)― 楊 海英 編

風  響  社         2013 

Cultural Revolution in Inner Mongolia 5

Documents Related to the Mongolian Genocide

During the Cultural Revolution in Inner Mongolia (5)

―The Testimonies of Victims (1)―

Edited by

Yang Haiying

Fukyosha Publishing, Inc. Tokyo

2013

 

ジェノサイドの被害状況

「中国人民の偉大な領袖毛澤東自らが発動した文化大革命」の最中に、北の内モンゴル自治区には約150万人弱のモンゴル人が住んでいた。あとから殖民してきた中国人すなわち漢族はその9倍にも達していた。モンゴル人たちは自らの故郷において絶対的な少数派の地位に落ちていたのである。やがて中国政府と中国人(漢族)たちはモンゴル人全員を粛清の対象とし、少なくとも346,000人が逮捕され、27,900人が殺害され、120,000人に身体障害が残った[郝維民 1991:313-314]。もちろん、これは中国政府が大幅に被害者数を縮小して発表した公式見解にすぎない。1981年当時の内モンゴル自治区の書記で、中国人の周恵は「隔離され、審査を受けたモンゴル人の数は79万人」だとしていた[阿木蘭 2010:541]。また、1989年に内モンゴル自治区党委員会が公表した被害者数は480,000人だった[阿拉騰徳力海 1999:85]。独自に調査したアメリカとイギリスの研究者たちはおよそ500,000人のモンゴル人が逮捕され、殺害されたモンゴル人の数は100,000人に達すると見積もっている[Jankowiak 1988:276;Sneath 1994:422]。最近では、内モンゴル自治区のあるジャーナリストが、直接殺害された者と自宅に戻ってから亡くなった者、いわゆる「遅れた死」を含めて、モンゴル人犠牲者の数は300,000人に達すると報告している[Sirabjamsu 2006:44]。このように、中国にいるモンゴル族全体が受難していた現代の凄惨な歴史を当事者たちは中国共産党政府と中国人民が一体となってすすめたジェノサイドだと理解している[楊 2008:419-453;2009a:;2009b;2009c;2010a]。

 これほど大規模のジェノサイドを中国政府はどのように「成功」させたのだろうか。また、自治区の末端レベルの人民公社で虐殺はいかに実施されていたのであろうか。本書は内モンゴル自治区の西部、首府フフホト市の近郊にあるトゥメト右旗四家堯人民公社(文化大革命当時は包頭市所轄)での被害の実態を現地からの公的資料に依拠して報告している。具体的にはまず自治区政府と当時の四家堯人民公社が属していた包頭市政府側の公文書たる文件類を提示して分析する。つづいて被害者側のモンゴル人たちがどのように陳情(控訴)し、自らが長期間にわたって受けた虐殺と虐待の事実をどんな形で報告していたかに関する資料を提示する。少数ながら、加害者側が自らの暴力を認めた証言録も含まれている。そして、当時の人民公社政府はこのような陳情書類に書かれた内容は事実である、と公印を押していた。このように、本書が収めている第一次史料はすべて中国政府側の公的な資料であることと、被害者と加害者の双方の当事者が書いたものであることを強調しておきたい。(中略)

 モンゴル人女性に対する性暴力

以上のように被害者たちから集まった陳情書に基づいて、四家堯人民公社は「新内モンゴル人民革命党員を抉り出して粛清する運動の問題を一層解決しなければならない報告書」をまとめた(資料五:6)。報告書によると、人民公社の主任白高才と任徳亮をはじめ、暴力を働いたのは蔺芝美、王文英、張旺法、王元偉、李茂東、王狗、陳迷鎖などだという。30数種もの刑罰で656人の内モンゴル人民革命党員とされる人々を虐待した。すでに紹介した刑罰のほかに男性を陰茎から吊るしあげ、妊娠中の女性の胎内に手を入れて、その胎児を引き出した犯罪もあるという(資料五:6,p3)。彼らはこの行為を「芯を(えぐ)り出す」((ワー)(シン))と呼んだ。「このような暴力をうければ、内モンゴル人民革命党員だと認めない者はいないだろう」、と嘆いている。ナチスドイツがユダヤ人たちにこの種の刑罰を施したかどうか、私は把握していないが、世界は中国人たちの犯罪を容認してはいけない。

つぎのような性的な虐待も報告されている(資料五:6,p3)。

 趙二好秀という女性を縛り上げてひどく殴った。そして、彼女を刀の刃の上に跪かせた。つづいて「青龍に乗る(騎青龍)という刑罰」が施された。それは、女性の下着を脱がせて、水に漬かった麻縄で会陰部を前後に鋸のように引くというやり方だ。彼女は下半身が破壊されて、大量に出血して倒れた。何回も治療にかかっているが、歩けない状態が続いており、障害者になってしまった。……

モンゴル人の女性で、張旺圪拉(張ワンハラ)を白高才と張旺清は「重要犯人」だと決めつけられた。さまざまな暴力で虐待しただけでなく、彼女に対し「芯を抉り出す」(挖芯)という刑罰を実施した。手を陰部から入れて子宮から四か月になる胎児を引き出した。彼女もこれで障害が残り、1976年に亡くなった。……

モンゴル人女性共産党員の黄秀英(今年80歳)も内モンゴル人民革命当の幹部とされ、すでに高齢になっていた彼女も刑罰で気を失っていた。そのとき、閻俊は自分の生殖器を出して彼女の口のなかに入れて放尿した。彼女はいまだに病床に伏したままである。以上、ここでは僅かの数例を挙げただけである。

 四家堯人民公社の人たちは白高才を逮捕し法律に依拠して処罰するよう求めている。おそらく、上で挙げた数々の性的な虐待はモンゴル民族が地球上に誕生して以来、初めて経験させられた受難であろう。戦争犯罪はどの民族にもみられるかもしれないが、やはり「五千年の文明を有し、孔子と孟子の著作を読んだ文明人」と自称する中国人たちが「野蛮人」とされるモンゴル人に対しておこなった犯罪は特別である。これは何も白高才ら数人の犯罪ではない。そうした組織的な犯罪を公認した中国政府と全中国人に責任がある。彼らは一度も被害者に謝罪していない。こうした人道に対する犯罪を国連人権委員会に訴える時期が来ている、と私は認識している。本書の読者にもまたそのように理解してほしいのである。

 本書はわずかに一つの人民公社における中国政府と中国人たちによる犯罪の一端を報告しているにすぎない。繰り返し示しておくが、内モンゴル自治区には約800の人民公社があったので、今後はすべての人民公社における被害状況について緻密な調査がおこなわれることを期待したい。それは私個人にはできないことであり、ほかの志ある人に委ねるしかない。

 モンゴル人男性を征服するための女性凌辱

 私は本書所収の資料の性質を最後にまとめるのに際して、中国人たちがモンゴル人女性に対しては働いた性的な犯罪に注目してみたい。上野千鶴子の分析によると、戦時において、「兵士の攻撃がとりわけ女性の性に向けられるのは、それが〈敵〉の男性に対するもっとも象徴的な侮辱であり、自己の力の誇示であることを知っているからである」という[上野 2012:113]。

  文化大革命の場合は戦時ではない。「人民が幸せな社会主義の大家庭」に暮らしていた平時であった。モンゴル人女性(図12 中国人の指導者毛澤東と周恩来、それに朱徳らを決して忘れまいとするモンゴル人女性を描いた中国のプロパガンダ作品。忘却できない歴史は無尽にあるはずだ。)に対する性的な凌辱はいわば相手に対する完全な征服を意図したものである。中国人たちは、モンゴル人男性を侮辱しようとして、モンゴル人の女性たちを公然と凌辱していたのである。となると、世界のモンゴル人男性(図13 毛澤東の肖像画の前に立ち並ぶモンゴル人男性。1950年代。筆者蔵)たちは何もしないで、座視して自分たちの妹や妻、娘と母親たちがうけてきた凌辱を忘却するわけにはいかないだろう。モンゴル人にとって、いや、人類にとっても、中国文化大革命は未解決な人道に対する犯罪である以上、国際社会と国際人道法廷に訴えつづけなければならない。

 チャハル右翼後旗における性的凌辱

 では、私が把握しているほかの事例を若干示しておこう。

   たとえば、樊永貞の報告によると、チャハル右翼後旗のアブダル営という村で1968年10月から内モンゴル人民革命党員を粛清する運動のなかで、中国人の李善という人物らはモンゴル人の女性のズボンを脱がせて、粗麻縄と呼ぶ縄でその陰部を鋸のように繰り返した引いたという[樊永貞 2009:200]。モンゴル人の趙桑島と趙傑によると、ウラーンハダ公社サイハン大隊第三小隊では、女性の顔に豚の糞を塗りつけて、嘗めさせた。そして、「夜になると、裸にさせてから、内モンゴル人民革命党員同士に〈公の場で交配する〉よう命じた。また、女性を縄に跨がせて〈鋸を引いた〉」[趙桑島 趙傑 2009:219]。

  チャハル右翼後旗のダランタイという人物は以下のように一族がうけた蹂躙を回想している[達林太 2009:221-226]。

  ナラブジャムソは私の兄で、1932年7月7日に生まれた。……兄が殺された後、その妻も逮捕された。兄の妻の名はドルジサンで、典型的な牧畜民だった。ある晩、工人毛澤東思想宣伝隊の隊長張輝根たちは彼女を裸にしてから手と足を縛った。そして、刀で彼女の乳房を切り裂いてから塩を入れ、箸でかき混ぜた。鮮血は箸に沿って流れ、床一面が真っ赤に染まった。……それでも宣伝隊の隊員たちは「お前は早く死にたかろうが、だめだ。誰が内モンゴル人民革命党員かをちゃんと白状してもらわないと、死なせないぞ」、と話した。彼女はこのように10数日間にわたって凌辱されてドゥルベト王旗の病院で亡くなった。……

 ドルジサンが亡くなる前に、「私はチャハル右翼後旗の者です。弟がアブダル営に住んでいます。私の5人の子どもたちを彼にお願いします」と話していたそうだ。……1969年5月に私はドゥルベト王旗に行き、兄ナラブジャムソと妻ドルジサンの遺骨と血に染まった衣類を持ちかえるとき、私はその5人の子どもたちを連れて帰った。途中、写真を一枚撮った。……

 このチャハル右翼後旗のあるウラーンチャブ盟では、計1,686人が殺害された、とアルタンデレヘイの著作にある[阿拉騰徳力海 1999:85]。

 性的犯罪を封印させる二次的な加害

その後、私もチャハル右翼後旗での被害状況について、追跡調査を実施した。以下はフフホト市に住むモンゴル人の証言である。彼女は当時、ウラーンハダ人民公社に暮らしていた。証言者の希望により、ここでは彼女の名前を伏せておくことにした[1]

 1968年2月のある日、夫と義父は相次いで逮捕された。我が家では私と義母、そして子どもたちだけが残っていた。私だけでなく、高齢に達していた義母も毎日のように批判闘争会に呼ばれては吊るし上げられていた。我が家は比較的に広かったために、私たち家族は追い出されてしまい、私たちの家は革命委員会専用の会場とされた。私たち家族は小さな倉庫のなかに住むしかなかった。私が住んでいた集落(qota)は5戸のモンゴル人からなる。20代の女性は私を入れて3人で、30代の女性は2人、そして年配の女性が4人いた(図14 牧場に暮らすモンゴル人女性。哈日巴拉画。出典: Jarud-un modun bar-un jirugh, 1985.)。私たちはみんな中国語がまったく分からなかったし、革命委員会の幹部たちも全員中国人で、モンゴル語が話せなかった。私たちにどんな「罪」があるのかも、全然、分からなかった。私たちはモンゴル語で会話するのも禁止された。

 幹部たちは通訳の人を通して、私に「ほかの男たちとどのように姦通したかを白状しろ」、と迫ってきた。そして、「あんたたちモンゴル人の性生活は家畜のように乱れているだろう」といわれた。中国人の幹部たちは片手に毛澤東語録を持ち、もう片手で鞭を持って私たち9人の女性を叩いた。妊婦だろうと、年寄りだろうと、一切かまわずにやられた。鞭が切れ、棍棒が折れるまで殴られた。親戚のNという20代の女性は殴られて流産したら、中国人たちは大声で笑い、喜んでいた。隣の集落から連れてこられたJという女性も性的な暴虐が原因で流産してしまった。

 内モンゴル人民革命党員の妻や娘たちはほとんど例外なく、革命委員会の中国人幹部に繰り返しレイプされた。あの時代、半径数十キロ以内のモンゴル人女性たちにまったく逃げ場がなかった。どこにいても、革命委員会に捕まっていた。1968年の夏のある晩、彼らは私たち5人の女性を丸裸にして草原に立たせられた。私たちは両足を大きく広げられ、股の下に燈油のランプが置かれた。すると、無数の蚊や蛾などの虫が下半身に群がってきた。このような虐待方法はその後、何日もつづいた。1968年の冬、中国人たちはまたSという女性に彼女の義父と「交配」するよう命じていた。このように凌辱されていたとき、いつも大勢の中国人の幹部たちや農民たちがまわりでみて、笑っていたのである。

 ある日、中国人たちは私にMという年配の女性を殴れ、と命令してきた。私が断ると、逆に叩かれた。Mは「彼らの命令にしたがって私を殴ってください。あなたはまだ若いし、子どもたちもいるから、生きなければならない」、と私を励ましてくれた。一週間後、Mは自殺した。私も絶望していたが、子どもたちのことを考えて耐えるしかなかった。結局、私たちの集落の女性たちはみんな身体に重度の障害が残った。私の場合は片方の耳が聴力を失い、腰も怪我した。両の腕も不自由だ。あのとき、先頭に立って女性たちを蹂躙していたのは、チャハル右翼後旗政府武装部の幹事、人民解放軍の幹部、史玉庭だった。彼の上司はチャハル右翼後旗訓示管理委員会の李庭樹だった。

 性的な犯罪をうけたモンゴル人女性は泣き寝入りを強制され、訴えられないという困難な状況におかれて、今日に至る。女性たちが自らの被害について語れれない中国社会は、二次的な加害行為がまだつづいている真実を意味している。

 自治区の他の事例

 シリーンゴル盟スニト右旗では、新民公社の李洪霞という女性は服を脱がされて、裸でディスコを踊らされ、「北京には金色の太陽毛澤東がいる」という歌を歌わされた。そして、彼女の下着のなかに爆竹を入れて爆発させた。段というドゥシム(都手木)公社に暮らす年配の女性は暴力をうけて肋骨が折られた。それでも、ラマ僧の上に乗せられて、「交配」を命じられた。ホダグラという女性は妊娠五カ月だったが、宋洪恩という中国人が彼女の下着に手を入れて陰毛をむしり取った(資料一:12,p4)。本書があつかう四家堯人民公社でも数多くの性的な犯罪が起こっていた事実を資料は伝えている。

   このように、中国文化大革命中にモンゴル人女性に対して、中国人民解放軍と中国人幹部たち、それに中国人農民らが犯した罪は枚挙にいとまがない。これは、モンゴルという民族がこの地球上に誕生してから初めて経験させられた凌辱に違いない。これは決して過去の問題ではない。モンゴル人女性に対して働いた性的な凌辱を公式に清算していない限り、このような人道に対する犯罪は現在的な、未解決の問題である、と読者は認識しなければならないのである。

   女性に対する性暴力は、彼女たちの同胞たる男性たちが完全に征服されたことを自覚させるためだ、との指摘がある。となると、全世界のモンゴル人男性たちはこれから、いかなる心情で中国と交渉すべきかについても、真剣に考えなければならないのであろう。



[1] 彼女は語るだけでなく、紙に書いた文も提供してくれた。